第130話 定期券を落としただけなのに

 何度も繰り返し話しているように、僕の高校時代は暗かった。

 男ばかりの学園生活のなかで、色恋なんていうものはもちろんなかったし、部活動にも所属していなかったから、その手の青春もなかった。惰性でときを過ごし、気が付けば受験シーズンを迎えていた。

 だから本当に何もなかったのだが、でもだからこそ、ちょっとしたイベントが鮮明な記憶として残っている。


 予め断っておくが、これは本当にどうでもいい些細なエピソードだ。でも、思春期だった故に、僕にとっては忘れることのできない事件だった。

 端から見ればどうということのない出来事だったとしても、本人からしてみれば重大なイベントだったと思えることがある。いま考えると、これは僕にとっても、そして僕の友だちにとっても、はじめて大人の女性を意識した、とても大切な瞬間だった。


 高校時代の自分には仲の良い友人が3人いて、うち2人は地元中学からの同級生だった。僕とツルむくらいだからはっきり言ってソイツらも、男としては、まあ冴えないほうだった。


 電車で2駅先の男子校に通っていた僕は、その地元の友だちと登下校をともにしていた。

 高校に入学したてのころだったから1年生だったと思う。その地元の友だちが、どこかで“定期券”を落としてしまった。学校に着いてから気付いたので、おそらくは、改札を出てから校舎に着くまでの道中だった。


「駅の改札あたりかもしれないな・・・、うまくポケットにしまえていなかったのだろう」

 友だちは制服の胸ポケットを見ながらそう推測した。

 それはそれで仕方がなかったし、僕にとっては人ごとだ。

「まあ、しょうがないな、帰りに駅員さんに届け出がないか尋ねてみるのが、できることとしては、まず先決だろう」と、僕は当たり前の対策を告げた。


 が、残念ながら届け出はなかった。

 彼は、帰りの切符を購入しながら「まあ、何日か待って出てこなかったら親に打ち明けるしかないな」と言いながら、その日は別れた。


 そして次の日・・・、定期券を拾ってくれた人が現われたとのことだった。

「良かったじゃないか・・・、で、どうしたんだ?」

「ゆうべ、見知らぬ人から突然電話がかかってきて、『定期券を拾ったから返したい』ってことなんだ」

 なるほど、駅に届けるではなく、直接手渡しで返してくれるというのだ。

「そうか、じゃあ、どこかで待ち合わせをしたのか?」

「まあ聞けよ、夕べな・・・、『私、吉田と申します』と言って、なんか若い女の人から電話がかかってきたんだ」

 彼は、少し興奮気味に説明をはじめた。

「『H駅の階段であなたの定期券を拾いました。学生証も入っていて電話番号も書いてあったから簡単に落とし主がわかりました』ってことなんだ」

 拾い主は、どうやら若い女性で、しかも声の感じからすると大学生くらいだろうと、友だちは言った。

「なるほど・・・、で、どうするんだ?」

「夕方5時に、H駅の南改札口で待ち合わせているんだ」


 いま考えると別にどうということはない。ただ単に拾ってくれた相手からモノを返してもらうだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。


「そこで、相談なんだが・・・・・・」

 興奮の冷めない口調で彼は続けた。

「んっ、何だ?」

 何となく察しはついたが、僕はあえて尋ねた。


「オマエも一緒に来てくれないか・・・。それから、お礼に何かを渡したいんだけど、何がいいだろうか?」

 やはりそういうことだった。彼の口調に乗せられ、少しずつ興奮してきている自分がいた。

「一緒に行ってやってもいいぜ、それからお礼は、図書券かなんかでいいんじゃないか・・・、それくらいが無難だろう」

 僕は、すぐさま答えた。


 友だちは、定期券の有効期間がまだ長く残っていたこともあったから、2000円分の図書券を買った。パスの中には、学生証と1000円札が1枚と食券の束が入っていたから、無くしたことを考えれば、それぐらいの出費は安いほうだった。

 そして、僕らはいまか、いまかとその人が現われるのを待った。


「その吉田さんってのは、どんな人だろうな?」と僕が尋ねると、

「女子大生くらいかもな・・・、駅に届けてもよかったけれど、早く知らせたほうがいいと思って、わざわざ電話をよこしてくれたんだ」

 なるほど、電話番号がわかって学生証の顔写真が確認できれば、そうすることが一番親切だ。彼女が選択した方法に対して、僕らは大いに納得のいくものを感じた。


「わざわざ連絡してくれるなんていい人だな・・・、でもそれ以上に・・・、きれいな人だといいな・・・」

 僕は本心を明かした。

「そうだな、もしきれいな人だったら・・・、成り行きによっては、どっかでお茶でもっていう展開になるといいな」

 友だちも思っていることは同じだった。


 そして、時間通りに彼女は現われた。

「あのう、“Iさん”(友だちの名前)ですか?」

 おおっ、ついに来た。

 予想通り、学生服ではなかった。おかっぱボブの髪型に、服装はカーディガンというかボレロファッションにミモレ丈のふわっとしたスカートを履いていた。

 そして、顔は・・・・・・、一目瞭然、かわいかった。


「はいっ、定期券を拾ってくれてありがとうございました」と言いながら、緊張しながらもニヤける友だちがいた。

「とてもお困りだったでしょう。駅の階段の途中に落ちていました。すぐにご連絡をしたかったのですが、夕方にならないと帰宅されないと思いまして、夜になって電話をかけさせていただきました」

 高校生を相手に丁寧な敬語・・・、なんて人当たりの良い、素敵な女性なんだ、と僕らは思った。


「あのう、少ないですが、これお礼です!」

 友だちは用意していた図書券の包み紙を渡した。

「いえいえ、当たり前のことをしただけですから、お礼なんてけっこうですよ」

 想定されたことだが、いくら落とし物を拾った立場だからといって、年下と考えられる高校生からお礼をもらうわけにはいかないと思ったようだ。

「いや、もう用意しちゃったんで・・・」と、友だちは半ば強引に手渡しながら、すかさず尋ねた。

「大学生ですか・・・? それともこのあたりにお勤めですか・・・?」

 練りに練った予定通りの質問を、彼はまずした。

「ああ、大学生です。そこのD文化大学です」

 やはり、ここから1つ先を最寄駅とする大学生だった。


「大学の何年生ですか?」

 ここで僕が、おもむろに口を開いた。余計な質問だと思ったが、話しを続けるためには、その流れで質問を重ねるしかなかった。

「1年です・・・。あなたたちは“M高校”ですね。私は、去年まで“M女子校”に通っていたんです」

「えっ、そうなんですか・・・」

 M女子校とは、僕らの高校の姉妹校であるところの女子校だ。

 急に親近感を覚えたが、でもだからといって、どうだということはない。ただ、それだけのことである。

「吉田さんは高校を卒業して、僕らは高校に入学して、ちょうど入れ替えだったんですね・・・。大学生活は楽しいですか・・・?」


 ほどなくして僕らは別れた。喫茶店に誘えるようなこともなく、奇跡なんてものが起こるはずもなく、当たり前だが何もなかったかのように時間は過ぎた。

 無我夢中のなかでのどうということのない会話だったけれど・・・、時間にすれば2-3分間のおしゃべりだったけれど・・・、僕ら2人の鼻垂れ小僧にとっては貴重な、そしてとても輝かしい瞬間だった。

 女性というものにほとんど免疫のなかった僕らだったからこそ、大人の女性というものを意識させるに十分な事件だった。


 その友だち“I”とは、いまでもたまに連絡を取り合うことがある。あの“定期券事件”は、僕らにとっては重大なことだった。有効期限が過ぎても、しばらくは捨てずに持っていたというのを、後で彼から聞かされた。

「やっぱそうするよな!」

 僕がそうだったとしても、当然そうしたはずだ。

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