第129話 自分にとっての経験としての文学
前々回で述べたように、“文学”の話しをする予定だった。が・・・・・・、これまた大風呂敷を広げてしまったものだ。僕程度の自称“物書き”が、文学についていったい何を語れるというのだ。
もしできるとしたら、それは“音楽”のときもそうだったように、自分にとっての経験としての文学しかない。己にしか当てはまらない事象だったら他の人には表現できない。
さらにハードルを上げてしまった感は否めないが、とにかくはじめることにする。
さて、文学の話しをする前に、年末になると誰もが考えることとして「今年はどういう年だったか?」がある。もちろん僕においてもそれなりの出来事はあったが、「この1年で自分の何が変わったか?」という問いに置き換えてみると、それはもう・・・、正直、だいぶ考え込んでしまった。
そういうことは、これまであまり考えたことがなかったからだ。
仕事をこなすことで成長を感じられていたころ、余暇活動で毎日が充実していたころ、進退について想いを巡らしていたころ、好きな娘のことで気持ちが一杯だったころに、どうして「自分の何が変わったか?」なんてことを考える意味があったであろうか。そんなことを考えている暇があったら、実際の行動に移したほうがいい。
幸か不幸か、まあ幸いなことだと思うのだが、僕はずっとそういう生活だった。せわしなく慌ただしい、一心不乱で無我夢中だったということだ。毎年が上書きの人生だったから、自分の何が変化したかなんてことを考える必要もなかった。
ところが歳を重ねるにつれて・・・・・・、それは落ち着いてきたということなのかもしれないが、仕事が軌道に乗り、余暇活動にも一定の区切りが付き、周りの喧噪から逃れて、恋愛に対しても一喜一憂しなくなった。
“挑戦(チャレンジ”)という言葉が遠くに聞こえ、“スキルアップ”というカッコいい横文字がたいして響かなくなり、“向上や発展”という領域とも距離を感じるようになり、“夢や希望”といった未来や将来とも無縁な周囲が訪れた。
これが平穏な暮らしであって、いい意味において安定した生活が手に入った証なのかもしれない。が、それと引き換えに日々の変化を感じなくなったということなのか・・・・・・。今年の目標、“現状維持”なんていうのをなんとなく感じている僕にとって、それは、きっとそういうことなのだ。
そして気付いたことなのだが、そのなかにおいての僕のちょっとした変化は、価値が高いとはけっして言えない書籍かもしれないが、それなりの文学作品を読み、こうしたつまらない駄文を書き、それが言葉として残っているということである。
どんな記述であったとしても、それらは今年になって新たに生み出された“形あるもの”ということである。
そう考えると、たとえそれだけだったとしても、その行いはけっこう大切なことのような気がしてきた。
僕にとって“読む”という行為は、“書く”という行為とセットで存在する。書くために読む、読んだからには書くという作業を繰り返している。
己にとっての文学は、「物心の付いたころから読書が好きで・・・」というものではけっしてない。「幼いときに親から読み聞かせをしてもらい、気が付いたら読書が大好きになり、図書館にこもって寝食を忘れて本を読み耽っていた・・・・・・」なんてことは、口が裂けても言えない。
学童期における僕にとっての読書の機会はただひとつ、感想文の宿題を出されたときだけだった。そして、これが大きな仇となった。指定図書とされる本がクソつまらなかったというだけでなく、誰にでも読めそうな本が自分には読めなかったというトラウマが、大きな大きな後遺症を残した。
中・高はもちろん、大学へ行っても、そして、こともあろうか社会人になってからも、僕は本を読もうとしなかった。というか、先にも述べたように必要性を排除してた。
読書からずっと逃げていたが、医者になった自分は、良識としてというより仕事として、医学書や医療系論文を読むようになった。いや、読まざるをえなくなった。そしてさらに、大学院に進むという過ちを犯したせいで、学位論文を書かなければならない状況に追いやられた。
そこでは読めもしないのに書くという作業が繰り返され、書くと同時に読むという所業を余儀なくされた。そんなことをしているうちに、書いて物事を表現するということが楽しいというのとはちょっと、いやだいぶ遠いけれど、なんていうか、意義のあることのように感じられてきた――当たり前のことだが、医学論文というのは、そうした医学の発展のためにあるべきものなので。
広い意味では、ブログとかSNS、YouTubeとかと同じように、承認欲求と自己顕示といったものなのかもしれない。自分の考えを論理的に述べるという営みにおいて、一種の愉悦を感じるようになったのである。新しい発見を基に昨日までの理論が変わるということが、この上なく己の野心に満足感を与えていった。
論文執筆に端を発した僕にとっての文学は、自らの変わりようを捉えるためのひとつのツールであって、“文学”というと大仰だが、それは自身の内実をさらしたひとつの自己表現であり、その先には自己肯定があるということに気が付いた。
つまりは、自分の変化を感じ取るためのひとつの自己満足手段ということなのである。
医療系の仕事に就いている20代の後輩から、新年の挨拶メールが来た。
「あけましておめでとうございます。去年は仕事もプライベートも、そして酒も充実した1年でした。今年は、『挑戦』の年。今やれることをやりきって、人のために、自分のために後悔のない年にしていきたいです。コロナも早く落ち着いて、早く従来の医療体制に戻れますように・・・。今年もよろしくお願いします」
「『挑戦』のために具体的に何をしていくつもりなの?」というようなニュアンスの返事をしたところ、「今年の目標は、とにかく実用書を含めて本を毎月5冊は読もうと思っています」という回答だった。
僕とは本を読む理由が根本的に異なるようだし、若者の熱量には頼もしいものがある。ただまあ言い訳をさせてもらうと、若いころは僕だって、僕なりの方法で自分を奮い立たせてきた。本にそれを求めなかったというだけである。
「読書離れは、実は大人のほうが深刻だ」とか、「大人になるにつれて逆に少しずつ読まなくなった」という指摘を、たまに伝え聞く。
たしかにそうかもしれない。そう考えると、いい大人になってからであったとしても・・・、必要に迫られたことでようやくはじめた読書であったとしても・・・、そのアウトプットとしての文章を毎年更新し続け、ときどき書籍を発刊させてもらっている僕はまだマシなのかもしれない。
いまさらながらの遅い気付きになるが、いまの生活において、僕は相当な部分で文学に助けられていると感じる。
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