第115話 いわゆる“ハニートラップ”について、男の自虐的立場から

 “ハニートラップ”という言葉がある。

 魅惑的な女性の誘惑に乗ったら最後・・・・・・という例のアレである。が、しかし、男の立場から言わせていただくと、そういうシステムもそれなりに男にとって大切な経験だと思う。


 医療界に限ったことではけっしてないが、僕らの業界にもそういうことは・・・・・・、まま、あることはある。


 僕が30歳になったばかりのころと記憶している。

 製薬メーカーの営業職であるところの20代の女性と仲良くなった。軽い巻き髪に凝ったネイル、5センチのパンプスにタイトめのレディーススーツという、男ウケする鉄板スタイルだった。上品なケバさと肉感的な体型が魅力だった。

 “医局”という医者の詰め所のようなところでデスクワークをしていると、ときどき潜伏してきて、もちろん名目は薬の情報提供なのだが、プライベートな会話を楽しんでいた。

 そのころの僕はトレッキングを趣味にしていたので、富士登山を達成し、北関東における周囲の山々を登っていた。活動的な彼女もアウトドアには関心があり、「それなら連れて行って」ということになった。


 それから、保険のお姉さんである。

 細かい経緯は忘れてしまったが、これまた生命保険会社に勤める20代のお姉さんと出会い、営業とは知りつつも、言葉巧みに食事に誘われた。ストレートな長い黒髪に切れ長の目尻、ベーシックカラーのセットアップという、これまた涼やかな出で立ちだった。清楚な雰囲気で高身長、スレンダーな体型が魅力だった。

 頭が良く、雑学が豊富で、トーク力は抜群、とくに文学や芸術に明るく、こうしたエッセイを書きはじめた僕にとっては、まさにドンピシャな思考の持ち主だった。食事のお礼と称してクラシックコンサートと美術館に付き合ってもらった。


 ということで、タイプは違えど2人とも営業を天職とするような女性だった。

 その容姿と処世とをもってすれば、僕のような世間知らずで対人関係の苦手な医者を落とすなんて、実に容易いことだ。現に僕は、だいぶ嬉しい経験をさせてもらえる・・・・・・と思っていた。


 が、しかし・・・・・・、トレッキング当日は、残念ながら雨だった。一応出かけてはみたものの、やはり散策できるような状態ではなかった。アウトドアな格好をしてきたので急きょ屋内で遊ぶという代替えも利かず、そのまま帰宅することになった――ということで、ちょっと気まずさを残した。

 コンサートや美術館は確かに楽しかった。けれど・・・・・・、学生時代から、ある財閥系の民間保険に加入していた僕にとって、それ以外の保険に入る意味はさしてなかった――ということを、後で告げた。


 そんなことがあってから、この2人の女性とは何となく付き合いにくくなってしまった。ビジネスとしての関係は持続していたが、必要以上にプライベートに関わることは、残念ながらなくなっていった。


 利害関係というか、接待問題というか、もっと言うと「下心でお互い近づいた結果だ」と言われれば確かにそう言えなくもないが、それは結果論であって、こんな出会いきっかけも悪くない(と思う)。

 ドラマチックで運命的な付き合いを求めたがる気持ちはわからなくはないが、どんなきっかけであろうと、人との出会いは奇跡的な確率で起こるものだし、仕事である以上、所詮はそうした損得を抜きに営むことはできない。


 もっと言うと、恋愛には駆け引きを伴う。

 料理や手芸の腕を披露して男を惹きつける、地位や立場を利用して女性に取り入る、どちらがどの程度のマウントを取るか、そんなことは日常的なことだし、いまさら言われるまでもない。

 恋が実れば、「仕事関係における素敵な出会いだったね」ということになるが、僕のように破談になれば、「それ見たことか」ということになる。


 確かに僕が2人の女性と疎遠になった理由は、所詮は仕事の付き合いだったということではあるが、よく言えば、彼女たちはその業務において常に熱心だったと言えなくもない。情報提供や品物の斡旋にも気持ちがこもるわけだから、同じ薬や似たような保険に入るなら当然彼女らの進める商品を使うのは、利害や損得を抜きにしても自然なことだ。

「公私混同」と言っても、そこは常識の範囲内での行動だった。


 公私ともに彼女らの要求に答えるのが・・・、もっと言うと、答えられるのが男であろう。

 うまくいかなかったのは、単に僕に魅力がなかっただけだ。男としての甲斐性が足りなかっただけだ。女性だけを一方的に責めるのは、ちょっと違う気がする。

「ハニートラップだ」と言って逆ギレする男がいたら、そっと教えてあげたい。「あんたに魅力がなかっただけだよ」と・・・・・・、「もっと男を磨くしかないんだよ」と。


 ということで、男としての度量のデカさを示したかったわけだが、後者の彼女は、同僚の医師と付き合いをはじめ、ついには結婚したということを風の便りで知った。

 僕は完全に、ソイツに敗北したのだ。

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