第114話 となりのムカイさん:そして関係へと
前回の続きということになるが、ムカイさんの背景をもう少し詳しく明かしておく。
当時の僕は大学1年の19歳で、彼女は専門学校4年の21歳だった。したがって彼女は、次年度には卒業を控えていた。
「卒業したらワタシは、小さな病院で、おじいちゃんやおばあちゃんたちのいる、のんびりしたところで働きたいわ」なんていう希望をもっていた。
岩手からわざわざこの北関東まで来た理由として、多少は都会への憧れがあったのかもしれないが、結局、田舎へ帰る選択をしていた。
4年の間に彼女はひとつの恋をした。
相手は、同じ専門学校で非常勤として働く講師だった。その人は、東京からときどきやってきて、彼女たちに専門の学科を教えていた。要は、先生と生徒の関係で、年齢が10歳くらい離れていたそうだ。当然、公にできる関係ではなかった。
彼女の大人びた態度と落ち着いた雰囲気とは、もしかしたら、そういう大人との付き合いが影響していたのかもしれない。
「そんな声、聞いたことないわ」というのが彼女の返答だった。
もちろん、そう答えるであろうことは瞬時に察知できたので、僕は慌てて、場を取り繕うことに終始した。
「変なこと聞いてゴメン、何でもないから・・・・・・。それにしても、風邪だいぶ良くなったのはよかったよ」
身体を気遣うようなフリをして、この質問の意図を打ち消した。
「そうだ、いただきもので悪いけれど、せっかくだからシュークリーム食べようか? 買い物に行ってないから何もないのよ」
僕の答えを聞く前に、彼女は袋の中身を覗き込んだ。そして、缶チューハイに気づいた。
「お酒もあるのね・・・、おいしそうだわ。久しぶりだから、これもちょっと飲まない」
病み上がりだからこそかもしれないが、喉の潤いを欲したのかもしれない。断る理由のない僕は、そう思って一緒に焼酎の缶も開けた。
「木痣間クンはまだこっちに来て間もないけれど、ワタシは4年間住んでいるわ」、なんていう会話からはじまり、改めて彼女の生い立ちや趣味、近況、将来などを聞かせてもらった。
その一つ一つを紹介しても仕方がないが、ひとつだけ特筆するとしたら、その恋人とはすでに別れの予兆があって、彼女は卒業とともにこの地を離れ、当然、彼とも離別することになるだろうと語った。
はっきり言わなかったけれど、もしかしたらその関係には倫理的な障壁があったのかもしれない。
彼女の家にはお酒のストックがあって、なんだかんだで“飲み”は進んでいった。少しずつ話題も広がり、酎ハイを2、3缶くらい開けたあたりから、かなりぶっちゃけた会話に発展していったと記憶している。
男子校時代は暗く、浪人中はさらに真っ暗で、やっとやっとで医学部に合格して、なんとか人並みの人生を送りつつある。なんの取り柄もなかった自分だから、唯一の趣味といっていい音楽をはじめたなんてことをしゃべったところで、急に彼女から、「じゃあ、彼女もいたことないんだ」と突っ込まれた。
見栄を張っても仕方がない。僕は正直に、「彼女もいなければ、当然、経験もない」と答えた。
「へーっ、まだ10代だもんね」
「2つくらいしか違わないだろう」と思いつつ、そんななかで、緊張が解けるどころか、かなり踏み込んだ話題まで振ることができるようになった。もちろん、お酒の勢いを借りてはいたのだが・・・・・・。
「2日くらいお風呂に入っていないわ」と言い出した彼女に対して、僕は、つい調子に乗って「一緒に入ります?」なんていう冗談を口走ってしまった。
当然、断られると思ったわけだが、彼女の返答は、「んっ、いつ?」だった。
えっ、入ってくれるのはすでに前提なの。「イヤよ」とか、「ふざけないでよ」とか、「なにそれ」とか、「バカじゃないの」という、罵声に近い返答が想定されたのに、返事は「イツ?」だった。
「いま」と、答えるしかないだろう。
詳述を控えるが、こうした流れで、僕は僕の19年間抱えてきたものを捨て去ることができた。
謎の多い女性だった。
あのとき彼女は、本当に風邪をひいて休んでいたのだろうか? さもなければ、あんなにお酒を飲むだろうか? あそこで、僕の欲求を受け入れてくれるだろうか?
もしかしたら、彼との別れを覚悟したことによる傷心期間だったのかもしれない。名前までは確認しなかったけれど、テーブルに置かれていた薬は、睡眠薬だったかもしれない。意図したものではないにしても、もし仮に、それにつけ込んだとしたら、僕の行動は正当に評価されるべきなのか・・・・・・。
それから確信したことは、あの声の主は、やはり彼女だった。
すなわち、出張で来たときの彼の仮住まいが1階にあり、ときどき彼女は階下に降り、“こと”をなしていたということだ。
付き合いが公になりそうになったことで、彼はそこを引き払い、残された彼女は2階に住み続けている。田舎へ帰る動機も、もしかしたらそんな理由があったのかもしれない。
話してみると意外と陽キャで、気さくなところもあったし、物怖じしないタイプだった。ただ、彼女と彼の、このオープンにできない関係が、彼女の生活に影を落とすというか、常に裏方へ回るというか、快活さの妨げになっていたとしたら、恋とはいったいなんだろう。
男からみれば、妖艶さや、淫靡さというものをかもし出す効果があったとしても、彼女自身それで本当に幸せだったのだろうか。
ご近所サンという立場に恵まれたことで、たったそのひとつの偶然だけで、僕は本当の彼女を知ることができた。彼女も僕に、少しだけかもしれないが、心を開いてくれた。それが10代最後の僕にとって、とても嬉しく感じた。
翌日、僕は一日、彼女はもう一日学校を休んだ。でも、僕に風邪がうつることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます