第90話 最後の日記から:若年性アルツハイマー病患者

 40代の“若年性アルツハイマー病”患者について語りたいと思う。


 僕が、大学病院に勤務していたときに出会ったその女性患者は、「最近、頭がはっきりしない、何をするにも活力が湧かない」と訴えた。そばには、心配そうにうつむく夫がいた。

 いくつかの検査の結果、軽い“うつ病”か、そうでなければ“認知症”のはじまりではないかと判断した。ただ、40代で認知症の可能性はほとんどないだろうから、どちらかと言えば前者の可能性の方が高いと考えた。


「気になることやストレスがあるとしたら、できるだけ解消するように。旦那さんの協力が大切です。お子さんがまだ小さいようですから、育児ノイローゼなんてことにならないよう気をつけましょう」などという、いまから思えばデリカシーのない指示を与えたことを覚えている。


 確かに“うつ”のような症状はあったのだが、それを差し引いたとしても、確実に記銘力障害が進行していった。特殊な脳の検査によって、“若年性アルツハイマー病”の可能性が濃厚となった。

 夫婦の落胆は相当に大きかったものと推察する。夫は、しばらく言葉を失っていた。

 当然のことながら、抗認知症薬の服用を続けてもらい、生活の改善を図るよう指導し、暮らしの質を上げるとともに無駄な疾病を避けるための対策が練られた。


 しばらくすると、彼女は日記をしたためるようになった。そして、子供たちに残しておきたい言葉を紡ぐようになった。来院のたびにその手記の一部を僕に見せてくれた。


「生まれてきてくれてありがとう。あなたたちが生まれてきたおかげで、私は知らないことをたくさん知ることができました。思ってもみないことが起こりましたが、私はこれまで、あなたたちと一緒に成長してきました」


 生まれてきた子供たちに対する感謝の気持ちを記していた。

 それからも、ずっと定期的な診療は続いた。

 認知症診療というのは、医者にとってもなかなか大変である。自分のできることが段階的に減っていく、社会との関わりが少しずつ低下していくなかで、それを受け入れなければならない。


「○○くん(夫の名前)、こんな私を許してください。自分でもわけがわからないのですが、少しずつ記憶力が鈍っていっているのがわかります。ときどき頭がぼーっとします。そんなときは励ましてくれてありがとうね」


 夫へのお詫びと感謝の気持ちを綴ることも、たびたびあった。

 彼の苦悩もいかばかりか。診察中は努めて冷静を装う部分はあったが、それでも妻の行動のチクイチの変化を僕に伝えてくれた。このころから夫は、会社勤めをやめた。


「自分に対して全幅の信頼を寄せてくれるあなたたちの存在が、こんなにも嬉しく、こんなにも責任を与えてくれるものなのかということを知りました。これからあなたたちは困難にぶつかることもあるでしょう。そんなとき、それを乗り越えていくのは自分自身でしかないのですが、私たちも一緒に悩み、苦労していきたい。それができれば、たとえつらくともどんなに幸せなことか・・・・・・」


 子供たちと一緒に悩み、共に成長していける未来が、はたしてやってくるのだろうか。彼女の苦しみが痛いほど伝わってきた。


 2年ほどが経過した冬のある日、夫のみが訪れた。突然の来院だった。

「先日・・・、妻が亡くなりました・・・・・・」


「えっ、亡くなった!? まだ、寿命が尽きるほどの進行ではなかったはずです」

「はい、事故か自殺かわかりませんが、夕方いないと思って探していたのですが・・・、自宅から20キロは離れていると思います。“日光”に向かう国道のすぐわきの雑木林で見つかりました」


 彼女は、自宅前から続く国道に沿って歩き・・・、ひたすら歩き、途中で靴が脱げたにもかかわらず・・・、一晩をかけて歩いたのだ。

「こんな寒いなかを・・・、なぜ、そんなところで?」

「わかりませんが、きっとこれだと思います」


 夫は、彼女の最後の日記帳を取り出した。

「あなたたちと一諸に見た、そして体験したあの日光の風景、あの生き物たちが忘れられませ。そうした1つひとつが、どんなにか新せんな輝きを  いるのか、ということも教えてもらいました。あなたたちと一っしょに歩くことで見えてきたものが、たくさんありませた。あらたたたな発見をしました。それもこれも、あなたちが生まれてきてくれてたからです。   ほんとうに本当ににありがとう・・・・・・」


 いま、僕の母も認知症を発症して4年になる。もうほとんど字は書けなくなっている。

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