第89話 看護師さんから2:生活感のない恋愛の行く先

 第7話『看護師さんから』の記述において、言い足りなかったことがあるようだ。

 さりとて特別な話ではなかったのだが、それでも、「別れるとわかっていて、どうして付き合ったのか?」、「その女性はなんで木痣間サンを捨てたのか?」・・・・・・、「それでオマエはよかったのか?」というような疑問を、何人かの読者からいただいた。


 一言で言えば、「知り合った時期にすでに彼女には恋人がいて、僕もその恋人から彼女を奪おうという気持ちにならなかった」ということになる。だから「そういう恋もある」としか言いようがないのだが、そうした判断しかできないほど若かったということなのか。

 この年になったからこそ、この記憶の真意をもう一度探っておく。


 はじめに断っておきたいことは、チープな言葉になるが、僕は心から彼女のことが好きだった。あどけなさの残る20代前半の女性だったから、30に手の届きそうな僕にとっては宝物に近かった。

 素直な性格と体のハリも魅力的だったし、少しだけみだりがわしい性癖を持つ彼女のノリに対して、ほとんど無条件に愛情を注ぐことができた。


 気っぷの良さというのも愛らしさのひとつだった。

 ある日、「街でナンパされた」と打ち明けてくれた。

「友だちと二人でブラブラしていたら、男がしつこく言い寄ってきてさぁ」と言うので、「どうしたの?」と尋ね返したら、「『やらせるわけないでしょ』と叫んで逃げてきたわ」とのことだった。


 女性の魅力を考えたときに、聡明さを自覚した女性がいたとして、そういう人からは、せいぜい理屈っぽさと執念深さしか感じられない。自我を確立したり個性を身に付けたりしても、固執という輪郭のなかに閉じ込められてしまう。支配的に押しつけがましいくせにクールで他人に無関心ぶる女、“クロワッサン症候群”で生きてきて「成長したワタシ」なんていう女、自己主張が自信の現れだとはき違えている女・・・・・・は、当時の僕からみれば面白さのかけらもなかった。

「周りに流されるのではなく、強い信念を持って生きている女性はカッコいい」とか、「自分の考えをしっかり持っていて、ブレない女性に憧れる」ということを言っているようでは、かたくなな態度は変えられない。


 そうかと言って、情緒に流されやすい女というのもけっこう面倒くさい。映画を観ては泣く、他人の結婚式に感激しては泣く。そういう女には女固有の思考課程があり、基本的呪文は、「こんなにあなたを愛しているのに」である。


 女が女である部分は、その直感力と肉体だけで充分だった。頭脳まで深く女っぽい必要はない・・・・・・、なんていうフェミニストが聞いたらぶっ飛ばされそうなことを、(くどいようだが)当時の僕は思っていた。


 彼女は、そういうたぐいの女性とは正反対だった。常に柔軟な対応ができるというか、要は、僕との濃密な時間を惜しげもなく楽しんでくれるというタイプだった。

 好みのスタイルに合わせてくれたり、「マッサージのやり方を覚えてきたわ」と言って体を揉んでくれたりしたこともあった。

 ちょっとわいせつに聞こえるかもしれないが、男の喜びそうなことを知っていた。


 月並みな表現にはなるが、愛嬌があり、隙があり、どちらかというとスローテンポ、素直で穏やかな人柄だった。

 素早くテキパキというのも悪いことではないが、彼女は、どちらかというとマイペースでゆったり。あまり感情的にならず、いつもおっとりと構えている。ぼんやりしているわけではなく、細かいことは気にしない“ゆるい”雰囲気。また、多少の失敗には動じないし、他人のミスもおおらかに受け止める。いつもにこやかで、険しい表情で人の悪口を言ったり、気に入らないことに文句を並べたりすることもない。


 要は、人をイヤな気持ちにさせないことにかけては一流だった。聞くところによると、母親も看護師だったそうだ。そんな親を見て育った彼女もまた、ナースとしての素質は充分だった。


 いろいろと勝手なことを語ってきたけれど、僕らの恋愛が思い出深く、きれいに終わっているのは、“生活感のない恋愛”だったからに他ならない。

 二人の会話のなかに、家賃だとか、給料の額だとか、親の病気だとか、知り合いのグチだとかという話題の入り込む余地はなかった――もしかしたら、明日の予定なんて話もしなかったような気がする。お互いのことを話し、お互いを褒め合う、ときに求め合う。批判めいたことを言うが、それはあくまで相手を想っての軽いジョークだ。

 刹那的と言えばそう言えなくもないが、二人の間に未来の話はなかった。

 それでも僕らは、いつも笑っていた。


 だから、長くは続かなかった。

 彼女の結婚前夜、逢うのはこれで最後というのが暗黙の了解だった。もちろん、モメるようなことはいっさいなかった。すべては予定されたシナリオだった。

 そして、まるで明日また逢えるかのように、いつものように「じゃあまた」と言って別れた。そこが終着駅であるという感覚はまるでなかった。


 やがて彼女は大学病院を去った。


 数年が過ぎ、僕が英国留学に行く直前だったと思う。理由は忘れたが、病院の待合室に座っていたところに偶然彼女が通りかかった。なんと、知らない間に復職していたのだ。もしかしたら産休でも終えたのかもしれない。髪は短く、少しふっくらした体型になっていた。

 目が合ったところで、昔と変わらない笑みを浮かべてくれたが、話しかけてくれることはなかった。

 二人が、互いの過去を知るだけの間柄になったことを、僕は改めて自覚した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る