第63話 慢性頭痛の患者から:携帯を買ってあげた娘
大学病院での勤務時代、僕が30代のころの話しだ。
頭痛の訴えで紹介された24歳の患者がいた。おも長にストレートの黒髪、切れ長の目に整った眉毛、スラッとした体型の落ち着いた雰囲気の女性だった。
「職業は?」の問いには、いまは何もしていないとのことだったが、「ストレスはないですか?」の質問に対しては、若干何かを言いたそうだった。
検査結果に異常なく、結局のところはっきりした原因はわからなかった。
これは僕の経験になるが、慢性の頭痛を訴える人には何かしらある。要は、内面的な悩みやストレスを抱えていることが多い。やはり、彼女も課題を抱えていた。
まず第一に父子家庭だった。もちろんそれだけなら問題はないが、父親は大酒家で、だから本人も相当飲める体質だった。
夜の商売をしていた彼女は、知らず知らずのうちにアルコール量は増えていった。飲めるという体質から、どちらかというと場の雰囲気を盛り上げるために飲んでいたと語った。お人好しというか、流されやすいというか、そういう素朴な一面があるのだろう。
体の異変に気付いたところで店を辞め、しばらくしてからもずっと頭痛が治らないということで来院したのだ。
頭痛に加えて、明らかにうつ状態だった。
治療として、これまでの不摂生をあげつらっても意味はない。いまできることのなかで最良の方法を選択してもらうことである。
第1に生活習慣の改善、第2に食生活の健全化、第3に運動習慣の導入、これによって慢性頭痛の8割は治ると思っているが、できないから頭痛があるわけで、実践できるなら苦労はない。
話しを詰めていくと、ストレスの一端として、父親の存在が大きくのし掛かっているようだった。
放っておかれるのかと勝手に思ったが、その逆だった。必要以上に干渉してくる。「いつも監視されているようで」と、彼女は語った。
当たり前のことかもしれないが、父親は娘のことを心配しているのだ。母親がいないのだから、そういう傾向が強くなるのは仕方がない。だが、二十歳も過ぎれば、娘は父親から離れたがる。不器用であるがゆえに、このジレンマはいかんともしがたい。
極めつけは、父親に携帯を壊されたということだった。
「ちょっと口論になったときに、『そんな電話に出たくないなら携帯なんていらないな』と、壊されちゃったんです」
穏やかなことではない。そこまでいくとちょっと尋常ではないような気がした。
「お父さんの愛情がものすごいのでしょうね」、そんな返答をするしかなかった。
「もう、頭痛いですよ! それにしても、携帯がないのは不便で仕方がないです。自分で買ってもいいのですが、仕事辞めちゃいましたから、お金もないし・・・・・・」
医者と患者という関係にある以上、必要なこと以外の介入をするべきでない。依存態勢が構築されることは、あまりよろしくない。それは、僕もこの世界で十何年生きてきて、嫌と言うほどわかっている。
がしかし、何をするにも活力の湧かない、うつ状態の彼女を救うには、携帯電話を手に入れること以外になかった。
「ケータイ買ってあげようか?」、僕は思わず口走ってしまった。
当時はまだガラケーの時代、そんなに高いモノではない。携帯なんてのは、飲み会を2、3回我慢するくらいの値段だ。どうということはない。
「本当ですか! そうしてくれるなら本当に嬉しいです」、彼女の顔が輝きはじめた。
そんなことくらいで立ち直れるならお安いご用だと思った。
数日後、ドコモショップに同行した。好きなものを選んでもらったところ、それは、ピンク色で大画面、ワンタッチ開閉式の最新機種だった。
「大事にします」と喜んでくれたけれど、僕は、「機種を買うことはできたけど、月々の通話料は自分で払わないといけないから、そっちの方が大変なんじゃない」というようなことを答えた。
電話のある生活は、彼女にとって有効に働いた。
「仕方ないので電話に出ていますよ。だから、父も『携帯があった方が便利だった』と反省しているようです。まあ、ストレスは減りました」
父親からしてみれば、自分で壊しておきながら、いまさら買い与えるなんてことはできなかったであろう。でも、なければ連絡を取り合うことすらできない。結局のところ、電話は二人をつなぐためには必須だった。
いまの時代、あるのが当たり前で、ないことによるストレスやデメリットは計り知れない。こういう人に頭痛薬を処方していても意味がない。こんなことくらいで頭痛が治るのなら安いものだ。
「ちなみに、ケータイを手に入れた経緯は、父親にどう説明したの?」
「正直に、『先生に買ってもらった』って言いましたよ・・・・・・、『いい先生だな』って言ってました」
うん、まあ、それでもいいかな。やはり、素直な娘なのだ。親子関係だって、そんな悪いものではない。
「せっかく買ってもらったから、先生の番号、教えてください」
それに対して僕は、「うん」とは言わなかった。
今回のこの携帯の購入は治療の一環として行ったことで、僕の優しさとか好意からくるものではない。友だちだとしても、キミとプライベートの交際をする気はないというようなことを、遠回しに、柔らかく、気を遣いながら伝えた。
彼女は、なんとなくすべてを理解したようだったし、すっきりしたようでもあった。
こうした一連の行動を治療といっていいのかわからないが、それから彼女は来院することはなかった。
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