第35話 M(エム)気質から:激励と責め苦のバランス

 椎茸栽培を生業としている30代の女性がいる。使命と責任とを感じるらしく、過労で倒れるほど真面目に働いている。

 だとしたら夜はゆっくり休めばいいものを、ストレスとプレッシャーから不眠を抱えている。持病にてんかんや喘息もあるので、けっして無理はできない身体なのだが、働くことが自分を支える術なのだろう。なかなか仕事の手を緩めない。


 体調不良を訴え、ときどき外来を受診する。きまって「身体を壊してしまっては何もならないから、働き過ぎないように」という注意をうながす。

 本人もそれはよくわかっているようで、「はい、夜はなるべく早く寝て、ストレスを貯めないようにします」と返答する。この関係が何年も続いているが、状況は変わらない。彼女は、「また言われるだろう」と思って来ているし、僕も、「また同じことを言うだろう」と思って診察している。


 多少苦痛であったとしても、毎回同じことを繰り返すことで安心を得ようとする行為が、きっと人間にはある。

 きついけれど毎日ジョギングするとか、つらいけれど早起きするとかというのと同じだ。そんなことを言うと、”無理ゲー”にハマるとか、ダメな男に尽くすとか、いじめられるけれどSMクラブに通うとか、辛いけれど四川料理を食べたくなるとかいうのも、きっとそうなのかもしれない。

“達成感”という快楽を得たいがために、多少の困難は織り込み済みという心理に基づくのだろう。


 そういう意味で、人間はもともと不自由を求めたいのだ。規制され、指導され、管理され、たとえ身動きが多少窮屈になったとしても、道が標されていた方が楽である。仕事においても家庭においても、なんらかの不自由さや、なんとなくの不文律を求めるようになり、それを手に入れることで安心している。


 ジョギングをはじめて間もない頃だった。最初は痛みとの格闘だったという話しを以前にしたが、それでも多少は速くなりたいと思って、エアロビクスダンスを習慣化している仲のいい女友だちに、そのことを打ち明けた。病院に出入りしている営業の人だった。

 彼女は、仕事を終えた夜からと、祝祭日の昼間の数時間とを使って、思いっきり汗を流していた。週に4~5日通っていて、そんな生活が5年以上続いているとのことだった。

 ストイックなだけあって、腓腹筋の発達した脚のスタイルがよく、5センチヒールのパンプスが良く映えた。美意識が高く、肌のメンテナンスも行き届いていた。錯覚かもしれないが、秋田県出身だったので、余計に肌のキメ細やかさを感じていた。


 どうして、そこまでして通い続けるのか。

「やれば気持ちいいし、ストレス解消にもなるし、運動をしていた方が体も軽くなるし、良いことばかりでしょう」

 もちろん、それはそうだ。そんなことはわかっている。

「でもね、こういうのは独りでは続けられないのよ。ワタシが続けられる理由は、インストラクターの先生に叱咤激励してもらっているのと、同じ会員さんたちと一緒に楽しんでいるからなのよ」

 さらに納得である。ムチにはアメが必要だ。

 僕においても独りでやっていたのでは、余程の意志がないと続かない。そうかと言ってジョギングを一緒にしてもらえるような友だちもいなければ、時間を合わせる余裕もない。

「じゃあときどき、ワタシが走っているかどうかのチェックをしてあげる」


 もちろん、僕が走る時間に合わせて一緒に走ってくれるわけではない。そんな暇な人ではまったくない。職場で顔を合わせたときに、「走っている?」と声をかけてもらえるだけだ。

 でも、いつ会うかわからないわけだから、抜き打ちテストのような機能を果たすことにはなる。

 連続して走っていれば、「がんばっているね」と激励してもらえるが、「今週は、3日前に一回走っただけなんだ」なんて言おうものなら、「走る気あるの!? 本当にそれで速くなれると思っているの!」というようなことを言われ続けた。

 ジョギングなどという行為は、“M(エム)気質”がないと続けられない。自分をいじめてナンボの所業だ。もともとそういう感覚が僕にはあるのかもしれない。そしてさらに、彼女からの責め苦に遭うことで相乗効果を生み出している。


 恥ずかしいことに、ある日たまたまチャレンジしたランニングマシンで転んでしまった。膝をしたたか打ちつけ、激痛が走った。もしかしたら皿にヒビが入った可能性があったが、黙って痛みに耐えた。

 幸い、数日間で痛みは引いていったが、それを彼女に伝えると、「あんたバカじゃないの。お皿を割ると1ヶ月くらいはギブスを巻いて安静にしてないといけないのよ。そういうときはすぐ病院に行きなさい。あっ、あんたも医者だったわね」


 いつも同じような言葉しかかけてもらえず、マンネリ化して物足りなくなっていた僕に、このムチは嬉しかった。

「うん、気をつけるよ」と言ってその場を切り抜けたが、膝を壊したわりには、僕はこれまで以上にどこか誇らしげだった。


 椎茸栽培の彼女にも、少し強めの注意が必要なのかな。

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