第17話 渡辺淳一先生から:刹那的な生き方

 学童期、青年期、さらに社会人になるまで本嫌いだった僕に、小説という愉みを与えてくれた作家が“渡辺淳一”先生である。「影響を受けた」と言うと大変おこがましいが、少なくとも僕にとって、読書の魅力を気付かせてくれた。


 彼が医者(整形外科医)だったという共通点が、より馴染みにつながったのかもしれない。初期の作品には医療モノが多かった。昭和43年、札幌医大で行なわれた、わが国最初の心臓移植の実態を追ったドキュメント小説『白い宴』なんかは、まさにその最たるテーマだった。

 そして、野口英世(『遠き落日』)や、近代日本における最初の女性医師であるところの荻野吟子の半生を描いた評伝モノ(『花埋み』)にも、著しい共感を覚えた。

 渡辺文学の神髄と言ったら“男女小説”である。『リラ冷えの街』、『無影灯』、『ひとひらの雪』、『桜の木の下で』、『うたかた』、『失楽園』、『かりそめ』などなど。若かりし日々、僕はかなり集中的にこれらの本を読んだ。


 これによって読書を習慣化させ、性愛の過程や女性の妖艶さや男女の機微を知った。それぞれの小説によって、描かれるテーマやストーリーが異なるのは当たり前だけれど、渡辺文学の描く恋愛の終着点は、“破滅”というか、“瓦解”というか、“終焉”である。もう少し婉曲的に言うなら“刹那”である。

「愛を永遠たらしめるには、そのピークにおいて命を絶つより他にない」という、恋の末路に“死”を持ってくることで物語を完結させる技法に――過激な性描写に対する否定的な意見も、おそらくあると思うけれど――、僕は、素直に感銘を受けていた。

 人の心の移ろいやすさ、命のはかなさ、愛のもろさ、輪廻転生、因果応報、宿命、因縁といった観念をさまよい、僕にとってそれはリアル以上のリアルであり、憧れであり、いずれこの物語のとおりの人生を歩むことを熱望さえするようになった。


 そして、自分も、いつしか文章を書くようになった。

 ただ、僕にとっての言葉というのは、フィクションを立ち上げたり、架空のストーリーを想像したりというものではなく、自身のリアルを紡ぎ出していく、いわゆる“エッセイ”という形式に固定化されていった。

 渡辺文学を通じて得られた己の感性は、事実から虚構を創り出す作業ではなく、フィクションをいかにノンフィクションに近付けていくかという考えへと発展したのである。つまり、自分の人生をいかに物語に寄せていくかということをイメージし、その一挙一動を実話として記しておきたいという気持ちになったのである。


「僕にとっては」という前提が必要かもしれないが、文章を書いていると、その時間は自分の世界へと深く迷入していくことになる。極端なことを言えば、周りのことなどどうでもよくなってくる。昼夜を忘れ、本能が満たされればそれでいいという気になってくる。“陶酔”というと大袈裟だが、つまりはそういうことだ。

 渡辺文学の描いた情愛にも、当然そうした酔狂の姿がある。主人公たちは、徐々に人倫や道義といったものから逸脱し、周囲が見えなくなってくる。

 

 ただ、もしかしたら、そういうのは少し危険な考えかもしれない。物事に引き込まれやすいことなので、ともすると、他人からの影響も受けやすいということになる。

そういう自分の素性がわかってきたから、僕はいつの頃からか、意識的に人を遠ざけるようになった。あるいは、良い影響を与えてくれそうな人しか周りに置きたくないと思うようになり、そういうつもりで人間関係を構築するようになった。

 結果、気軽に友人を作れなくなり、人付き合いも苦手になった。センシティブと言えば聞こえはいいが、要は偏狭で狷介なだけだ。こういうのは、文学にハマった際のマイナスな側面かもしれない。


“男女小説”に話しを戻す。

 恋人や夫婦の関係というのは、最終的には個人の問題である。倫理的に不適切な恋には障壁や軋轢が付きまとうのは仕方がない。

 ただ、そうした関係がうまくいかなくなった場合に、無理に道徳や規範で縛るのではなく、もう少しお互いを尊重し、各自の希望を満たすような形での解決方法がないものかと、(それもちょっと特殊かもしれないが)普通は考えるだろうけれど・・・・・・、僕は、その状況に対して、現代でも“心中”という道があることを示した渡辺先生に、深い深い畏敬の念を示すのである――関係ないけれど、“阿部定事件”なんていうものにも深く共鳴する。


 まさに一期一会、生前の先生の講演に一度だけ行ったことがある。

 ちょうど『エアロール』が上梓された後だから、かなり晩年に近い頃だ。講演のタイトルは、“男女の機微”だったが、エッセイを含めて彼の本のほとんどを読んでいた僕にとっては、正直、目新しさはなかった。

 そして、破滅や刹那も感じなかった。

 先生の肉体から発せられた、言葉としての重みはあったが、やはりそこは独りの人間、なんというか当たり前だけれど、人間味や人当たりといったものもにじみ出ていた。

 やはり作家には、研ぎ澄ました空想上の思考を、よりリアルに文字に落とし込む真骨頂があるのだろう。


 渡辺文学を知ったことで、物事の本質をより深く考えるようになった一方で、逆に感情や刹那的な想いだけで行動してもいいのではないかということを学んだ。ただそれらは、繰り返しになるが、すべて架空の物語だ。

 僕はきっと生きにくい性分になったと思うのだが、いまこうしてこの年代まで、さまざまなことを着想し、考察し、語り、ときに逸脱し、変遷できるのは、きっと渡辺先生のお陰である。

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