第10話 論文捏造疑惑から:あえて「やむを得ない」と言わせてください
どこの研究機関でも一度はやり玉にあがる“論文捏造疑惑”である。
わが大学病院も例外ではなかった。「当該の研究グループが、2002年から10年にわたって、海外の学術雑誌に掲載した生活習慣病などに関する計30本の論文のなかに、一つの実験データを複数の論文に流用したなどの不正な点が55ヵ所あった」と指摘されたものである。
「医者で研究者たるものが、捏造などという不正に手を染めるのか」と思うかもしれないが、科学が進歩・発展を続ける限りにおいては、論文の捏造・盗用・改竄はなくならない。コンピューターに発生したバグのようなもので、いつの時代、どこの国でも不正は起きている。
人間はプラスのインセンティブが働くからといって、必ずしも良いことをするとは限らない。しかし、ペナルティがなければ必ず悪いことをする。そういうものだ。医者であっても例外ではない。
とは言ってもまだまだ、信頼に根ざしたいくつものチェック機能の働いているはずの医療界で、いったいなぜ捏造事件が起きてしまうのか? 科学的に論理的に物事を処理していくはずの医学界なのに、なぜ事実でないことが論文になってしまうのか? 研究者のことを怪しいと思っていても、どうしてそれを止めることができないのか? 遅かれ早かれ破滅が確実に訪れるように思える捏造に、どうして手を染めてしまうのか? そんな疑問が尽きないと思う。
多くの人たちが指摘していることだが、「論文の捏造を同僚たちが見抜けないこと」、「研究者同士の暗黙の了解や信頼のナイーヴさが存在すること」、「科学雑誌の査読者が機能不全に陥っていること」、「共著者およびその研究室の人たちが捏造の最初の防波堤となるべきだが、“成果主義”という評価システムが入り込むと、その防波堤が機能しなくなること」、「きちんとした中立的監視機構がないこと」という、周辺システムの不備の問題を揚げる識者も多い。
しかし、「関係者の事情はさまざまかもしれないが、捏造する研究者がいて、それを承伏しょうふくし、利益を得る者がいる」という構造以外にない。だから、当の研究者の罪の意識は、案外乏しい場合が多い。
「追認されない研究結果」というものはいくらでもあるし、捏造した結果が運良く追認されれば、その領域の仮説を先駆的に示せたことになる。捏造論文が目立とうが目立たなかろうが、どっちに転んでも、それほどの痛手を被ることはない。自分ならそう考える――STAP論文は目立ちすぎた――。
僕の研究生活を改めて思い返してみる。
学位論文が完成し、初めて医学雑誌への掲載が決定したときに思ったことは、「やっと終わった」という虚脱感だけであった。達成感や満足感というものとは、ほど遠い感情であったことを、いま今でも覚えている。
寝る間を惜しみ、遊びと食事との時間を削り、隙間時間を利用して、「とりあえず終わらせなければならない」という一念だけで実験をこなしていた。
それは、ピペットを握っての単調な作業の繰り返しであり、“ある群とある群”とに分けて統計解析を重ねるという操作の連続だった。そこに、知的好奇心や先見的探求心などというものは微塵もなかった。「有意差」というひとつの結論を導くためだけに才知さいちを投入していた。
僕にとって実験は、それ自体は少しも楽しくなかったけれど、きれいな結果が得られた場合に、それについてじょうずに論文を書き、雑誌に掲載されることは嬉しかった。だから、ひたすらピペットを握ることも容認できたし、膨大なデータを処理することにも酔狂できたし、論文を書くことにも熱中できた。とにかく形にすることで愉悦を得ていた。
本末転倒と罵られようが、自分の書いた学説が活字化されて、段が組まれて雑誌にきれいに印刷されて、関連の学者たちの間で読まれている(はずだ)と妄想することに、無類の喜びを見出すことができた。
そして、学会場かどこかで見ず知らずの研究者から声をかけられて、「先生の論文を読み、参考になりました」などと言われれば、これはもう研究者冥利に尽きるというものである。
そういうのが研究だ。
自己満足であろうと、報酬や名誉,権威といった俗な精神であろうと、とにかく好奇心や自尊心を刺激する美酒に酔いたいと願うモチベーションによって推進していくのが研究というものだ。
サイエンスというのは本来そういうもので、「○○病の治療に役立つから」とか、「××症の診断に応用できそうだから」という近視眼的な目的のためにやっている研究者はむしろ少ないのではないか。
ひたすら「真理の追究と解明」に近づくことを目標に据えた研究者の方が、かえってひたむきで社会的貢献につながる本質的な発見ができる可能性を秘めているような気がする。
研究をしていても発表の場が与えられなければ、何もしていないことと同じである。それには、書かなければならない。書いて雑誌に採択されなければならない。当たり前のことである。
だから、「不正を防ぐには?」という問いを立てること自体が不毛というものだ。「倫理教育の徹底」などということを解決策にあげても意味がない。「皆さん注意しましょう」的なリスクマネジメントでは、危険は回避できない。不正が起きないように、あるいは起きてもすぐに判るようなシステム化を目指すことも重要だが、逆に「システムに頼ったがためにエラーが発生した」などという事件は枚挙にいとまがない。
残念だが、「不正は起こり得る」という立場で論文を把握し、解釈しなければならない。
ただ、少しでも不正を減らしたいならば、不正をしてまで論文を書かなければならないという境遇を減らすことだ。
研究意欲が失われていくことは医療者として、けっして恥ずべきことではない。そうした興味の変化にも関わらず捏造を繰り返してまでも生き残ろうとする方が、実際に研究をするより余程ストレスフルな状況に陥るだろうし、何よりも楽しくない。
抽象的な言い方かもしれないが、常に自分に関心を持ち続けていれば、そういう潮目の変わるときが必ず判る。方向を転換していく“潔さ”と“素直さ”とを持ちさえすればいいのではないか。
研究の不正を取り締まるシステムを構築するよりも、静かに自分の能力を振り分けられる柔軟性のあるシステムを擁護しておくことの方が、余程大切なことの ような気がする。特に医者なら、「研究以外にも貢献できる間口はいくらでもある」ということを自覚できないまま過ごすより、遥かに値打ちの高いことではないだろうか。
そうやって僕は研究を止め、アカデミックポジションを捨てた。
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