第11話 差出人のない手紙から:「これからは、良い人生を歩まれることを願って止みません・・・・・・」

“差出人”のない手紙を受け取ったことはあるだろうか? 僕はある。


 その封書には、受取人である僕の宛名ははっきり書かれていたが、裏を返してみても差出人の名前がなかった。どこにでもある普通の茶封筒だ。手書きであることを考えると、僕をよく知る人物のようにも思えた。

 インターネットによるダイレクトメールだったらそういうこともある。だが、自宅にわざわざ送って寄こすような手紙に対して、差出人が自分の名前を書かないということはあまりない。あるとすれば、知られたくないということ以外に考えられない。


 その手紙が来たのは、大学病院の退職を決めて、残り僅かの出勤を残しているときだった。

 消印は同じ町内だったから、大学近くのポストに投函したのだろう。住所と名前を記載した文字は、やや丸みを帯びていたが、さほど特徴的な字体ではなかった。男性とも女性とも判断できないような字だったが、見覚えはなかった。

 迷ったあげく、その封を開けた。


 中には四角に折られた2枚の紙が入っていた。

 封書の場合、普通は三つ折りといって、手紙の下三分の一を上に折り上げ、次にもう三分の一を折り下げるというたたみ方が一般的なのだろうけれど、その手紙は、縦に折って横に折るという、すなわち十字の折り目がつくように折られていた。要は、ぞんざいな折り方だった。すでにただの手紙でないことがはっきりした。

 僕の引き起こした、公的助成金の不正使用問題や、論文捏造疑惑のネット配信事件をあげつらった、要は怪文書的なものであろうと覚悟した。

 果たして中身は・・・・・・、そうしたものとは少し違っていた。


 僕が大学病院に勤務した15年間に何をしたかというと、幾ばくかの患者を救って、学問を少しだけ発展させて、一度結婚をして、ある女性と極秘の付き合いをして、そして最後は大学を追われたというだけだ。

 まっとうな大学病院の医師人生とは言えないかもしれないけれど、さりとて特別でもない。そんな、ただの男の生き方に対して、いったい何を言いたいのか。


「木痣間先生、長きにわたる大学生活お疲れ様でした。病院を辞めるという噂は本当だったのですね。

 先生に何があったのか、詳しくは存じませんが、何やら医局で問題を起こしたようなことも伝え聞いております。それによって大学に居づらくなったのでしたら、自業自得かもしれませんが、私は少し残念に思います。

 あなたは、熱心に患者さんを診療し、がんばって研究にも励んでいたと思います。でも、大学という組織の評価は、それだけではないのでしょうね。


 ただ、あなたは、大きな過ちを犯してきました。○○さんとお付き合いをしていたでしょう。私は知っています。その彼女は、あなたを捨てて結婚してしまいました。あなたはそういうことが元で離婚までして、最後は大学まで追い出されることになって。


 もう少し自分を見つめ直した方がいいと思います。そうでないとどこへ行ってもきっと同じです。私は、あなたのことを心配しているわけではありません。ただ、教授になると目されていた優秀な先生が、人生を踏み外してしまったことが気の毒でなりません。

 これからは、良い人生を歩まれることを願っております・・・・・・」


 一体誰だろう。この手紙の送り主は?

 ちょっと誤解はあるが、僕のしでかした女性関係に苦言を呈しているものの、応援しているようにも思える。

 極端なくせ字ではなかったけれど、“忄”(りっしんべん)や“辶”(しんにょう)をひと筆で書いたり、若干右下がりの字だったりする部分に特徴があった。

 ダメ元とは思ったけれど、保存されている紙カルテを調べてみた。医師の記録以外にも看護記録や患者同意書、検査レポートなど、さまざまな病院関係者の記録が筆跡として残されているからだ。

 そんな簡単にわかるわけないが、それでも数十冊は調べたかもしれない。


 そして、わかった。


 手紙の送り主は、かつて同じ病棟で一緒に仕事をしたことのある医療クラークだった。僕が医者に成り立てで、まだ右も左もわからなかった頃、なにかと事務的なことを教えてくれた、言ってみれば、世話焼きお姉さんのような女性だった。たいていは優しかったけれど、ときどき「調子に乗ってはダメよ」といさめられた。椅子に脚を乗せていたら「お行儀が悪いですよ」と叱られたこともあった。

 ちょっと永作博美に似ていた。僕は、彼女の前ではなんか素直になれて、安心できた。確か一度食事に行ったことがあったし、好きになりかけたこともあった。

「僕ら付き合ったらどうなるかな?」なんてことを冗談のように本気で言ってみたら、「先生のような人は、私には合わないわ」と返されたことがあったような・・・・・・、ないような。

 途中で違う部署に異動してしまったけれど、ときどき廊下ですれ違えば、自然とにやけてしまい、少しだけ立ち話をする。

 そんな思い出が蘇った。


 確かに筆跡は似ていたが、本当にこの人かどうかはわからない。でもきっとこの人だと思うことで、僕は少しだけ前向きに、大学生活に見切りを付けることができた。

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