第9話 同期の女医さんから:華やかな裏側にも波乱はあるものだ
自分の診療科ではないのだが、あるひとりの女医さんの話をする。
僕が大学病院を去る直前まで関わらせてもらった人である。関わるという言い方は曖昧かもしれないので少し言い換えるが、プライベートな趣味を共有させてもらったということだ(まだ曖昧かもしれないが)。
きっかけは、僕がその女医さんと同じメーカーの車に乗りはじめたことだった。
車に対するこだわりがほとんどないので、ずっと馴染みのディーラーの薦める、程度のいい中古外車をほぼそのまま買っていた。このときはアルファロメオスパイダーだった。ピニンファリーナによる奇抜なデザインのものだ。「こんな赤いオープンに乗れるのもいまだけですよ」なんて言葉にのせられて購入した。
知っていたことなのだが、その女医さんも、車種は違うけれどアルファロメオに乗っていた。
病棟で顔を合わせた際に、むこうから声をかけてきた。
「先生もアルファ乗られていますでしょ」
「あっ、はい。最近買い換えました。でも、ディーラーが適当に見つくろって持ってきたものですから、別に乗りたくて買ったわけではないんですよ。たまたまなんです」
「たまたま・・・・・・、そんな理由でアルファに乗ってらっしゃるのですか?」
まずい雰囲気になってきそうな予感がしたので、その場はそのままやり過ごした。なんとなく何を言われるかの想像がついたからだ。
何日かして、「機会を作りますから、先生のお車に乗せてくださらない」と、また声をかけてきた。
「その節はすみません。けっしていい加減な気持ちで選んだわけではないのですよ。もちろんカッコいいと思って乗っています」
「別にそんなことはどうでもいいのよ。わたくしはアルファロメオが好きだから、先生のお車にも乗ってみたいと言っているだけですわ」
この女医さんは、偏差値の高い某大学医学部を主席で卒業し、私のいる大学病院に入職してきた。病院を経営している旦那さんを持つ、言ってみれば同じ医者だけれども、僕とは天と地の開きのあるセレブだった。同じ年のくせに。
「あっ、はい。あんな車で良ければいつでもどうぞ」
「あんな、車・・・・・・」
まずい、また変なことを言いそうになってしまった。
「じゃあ、明日は土曜日ですので、お昼過ぎに連絡をさせていただきます」
面倒なことになった。まあでも、久しぶりの女性とのドライブということになるのかな。一応洗車をして、ガソリンを満タンにする自分がいた。
そんな形で僕らの妙な関係がスタートした。僕は離婚していたからあまり問題なかったけれど、彼女には旦那がいる。もちろん、一線を越えたいなんてことは考えていなかった。
当時の僕の趣味のひとつに“登山”があった。離婚するかしないかで悩んでいたこともあって、自分を見つめ直すつもりではじめたのだ。これが、意外と合っていたようで、2週に1回程度は近隣の百名山に登っていた。
「今度山に連れて行ってくださらない。できれば富士山がいいわ」
何を言っているのだろうこの人は、素人がいきなり登れるものか。と思ったのだが、いとも簡単に登頂してしまった(僕の山仲間と、彼女とを含めて4人で登った)。実はフィットネスやジムに通っていて、体力も底抜けにあるスーパーウーマンだったのだ。
なんだかしらないけれど、とても楽しい富士登山だった。温泉にも入り、美味しいモノを食べて、いい思い出になった。一度きりというわけではけっしてなく、その後も休日を利用した日帰り登山は続いた。気のせいか、彼女も自分の見えない何かと闘っているようだった。
お互い忙しかったから、なんとか時間をやりくりしながらミッドナイト上映会によく行った。夜中の映画館というのも、なかなか隠微な雰囲気でよかった。当時流行した『アバター』や『インセプション』や『アリスインワンダーランド』なんかを観た覚えがある。
僕には似つかわしくない、1日に3組限定なんていう高級料亭にも連れて行かれた。バカ舌だし、酒も飲めない自分としては、あまりわからなかったけれど。
何から何まで完璧な女だった。たったひとつの事実を除いては。
ある日の帰りである。
「先生、自宅に寄っていかれませんか?」という言葉をかけられた。
「あっ、はい。お招きいただけるのでしたら行かせてもらいます。旦那さんにもきちんとご挨拶したいですしね」
「私の家には、主人はいませんのよ」
「えっ・・・・・・!」
「でも、結婚していると言っていましたし、旦那さんが病院を経営しているという噂は本当のようですよね」
「わたくし、夫のDVが原因でいまは別々に暮らしていますのよ。夫は世間体があるから別れないと言っています。わたくしもいい歳になりましたから、仕方がないと思っています。でも、その変わりと言ってはなんですが、好きなことをさせてもらっていますし、お金も使い放題ですのよ」
容姿端麗、頭脳明晰、横浜で生まれて、お父さんは貿易会社社長、お母さんは英語通訳、兄も医師、絵に描いたようなセレブにも苦悩は存在していた。
夫は、いわゆる“いいなずけ”的な人だったらしい。
何不自由なく育ったと思われるこの女医さんの波乱な人生に対して、僕は何か涙する想いがした。
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