あの扉の向こう側

増田朋美

あの扉の向こう側

あの扉の向こう側

私は階段を上った。階段を上った先には、大きなドアがあった。このドアはひとりでに開くことはなく、誰かがカギを差し込んで開けるようにしなければ、開くことができない仕掛けになっている。

私は、そのカギを開けて、部屋の中に入る。まだ朝が早い時刻なので部屋の中の患者さんたちは、まだ寝ているんだと思う。そっと患者さんたちに気づかれないようにそのドアを閉める。そしてまた、鍵を閉めて、誰も出られないようにするのだ。

私がナースステイションに入ると、夜勤をしていた中川さんという女性の看護師が、もう疲れたような顔をして、私のところにやってきた。

「どうしたの?何かあったの?」

と、私は、さりげなく中川さんに聞いてみる。

「原田さん、あの須田梅子の事で。」

と、中川さんは、嫌そうな顔をしていった。須田梅子。私はこの患者さんに見覚えがある。

「はあ、彼女また何かやらかしましたか?」

私は、彼女にできるだけことを大きくしないように、できるだけ気軽な雰囲気を作って、そういうことを言った。

「何かやらかしましたかって、もうずっと眠れなくて、睡眠薬をくれってうるさいんですよ。私がね、睡眠薬はあまり飲みすぎるといけないから、ちゃんと管理しているんですって言っても、眠れなくてつらいからっていう言葉を繰り返して、しまいには、私に殴りかかってきそうになったので、もう怖くて仕方ありませんでしたよ。」

「はあ、、、そうですか。」

とりあえず私は、そういうことを言う。

「そうですかって、須田梅子は原田さんの担当の患者さんでしょう。其れなら、原田さんがもうちょっと、昼間寝すぎだとか、そういうことを、ちゃんと話して、昼間は起きて、夜は寝るっていう習慣をつけてやってください。」

中川さんは、いやそうな顔をして私のほうを見た。私は、確かにそうだなあと思うのだが、私だって一生懸命須田梅子さんに言い聞かせたつもりである。なのに、彼女は私のいうことを聞かないばかりか、私以外の看護師、つまり中川さんをはじめとして、ほかの看護師にも、そうやって無茶なことを言い続けるのだ。

「もう、困りますよ。こんな事言っちゃいけないのはわかっていますけれども、須田梅子、モンスターペイシェントと言えるんじゃありませんか。もう昨日なんて、一晩中騒ぎ続けて、本当に困りました。もう、ほかの病院に行ってもらいたいくらいです。」

「そうだけど、、、。」

と私は言った。実は、須田梅子がここへ入院してきたとき、彼女の唯一の家族である、彼女のお兄さんに話を聞いたのだが、梅子は、ほかの病院にもいったようであるが、10軒近くの病院をたらいまわしにされた経験があるという。それだけ彼女には問題が多いということだろう。いずれにしても、夜間に大声を出して騒ぐとか、ほかの患者さんと喧嘩をするなど、数々の悪事をしでかしたようなのだ。

「ほかの病院だって、彼女を治療することができなかったわけだし、何処か最後の砦になってやらなくちゃダメってことではないですか。彼女のお兄さんだって、一生懸命やってくれているんですから。」

私は、中川さんに言ったが、中川さんはもう彼女の世話をするのは嫌ですよ、といった。

「あんなモンスターペイシェント、早く出てってもらいたいわ。」

と、言われても、出ていくためには、睡眠薬を求めて大暴れということをしなくなるという目標を達成しないと、できないということも確かなのだ。彼女はどうして、そこまで薬物にこだわるんだろう。その理由を知ることができればと思うのだが、精神科の患者さんは、自分の言いたいことを成文化できるかと言えば、そんなことはまれである。というか、むしろ成文化できたら、入院何てする必要もないのである。

「ほら、原田さん、朝の挨拶に行ってやってください。」

中川さんに言われて、私はわかりましたと言って、ナースステイションを出た。この病院では担当看護師制度があって、一人の患者につき一人の看護師が、付きっ切りで世話をしなければならないという制度があった。確かに、大勢の看護師が、一人の患者に声をかけるというよりも、担当の看護師がずっとそばにいてやったほうが、患者さんも安心してくれるだろうという思いからだった。昼間はそうやって担当看護師というものが付くが、夜はそれがなくなって、夜勤の看護師が数人で患者を介護しなければならないので、一寸看護の質が落ちると批判を浴びているところでもある。なかなか夜勤をする看護師もいないし、それに小さな子供さんがいる人なんかはそれにかこつけて夜勤を回避することもある。まあ、私もそういうところがあるので、中年のおばさんで、夜勤を中心にやってくれる中川さんに文句は言えないこともあるけれど。

私は、また階段を上った。この病院には重症の患者さんのために、保護室というものがある。と言っても、鉄格子があって、便所が丸出しというようなところではなく、単に、外からカギをかけることが可能な部屋というだけであるが。その部屋に行くには、数段だけだけど階段を上っていかなければならなくなっている。それは、患者さんが思わず部屋を飛び出してしまうのを防ぐため、という意味があるのだ。階段を上ると、またカギをかける事の出来る扉がある。そのカギを開けて、私はまた中に入る。そして、廊下を歩く。廊下の反対側に、保護室が三つある。その中の一番端の部屋に、須田梅子はいる。私は、部屋のドアを三回ノックして、須田さんとできるだけ優しく言う。

「須田梅子さん。」

私がそういって、ドアを開けると、須田梅子さんは、布団の上に座っていた。やっぱり、眠れなかったらしい。

「須田梅子さん、おはようございます。」

と、できるだけ明るい顔で、笑顔を作って話さなければならない。

「はい、おはようございます。」

須田梅子さんはぼそりと答えた。

「昨日は、よく眠れましたか?」

私は、いつもと同じようにそう聞く。

「いえ、眠れませんでした。あの中川っていう中年のおばさんが、私が幾ら薬が欲しいって言っても、飲みすぎているからダメっていうから。」

と、須田梅子さんは答えた。

「そうですか。じゃあ、昼間眠らないで、起きていることにしたら?そうすれば自動的に夜眠れるようになると思いますよ。」

私は、一般的なありふれた答えを言った。

「でも、眠っているほかに、何もできることないじゃないですか。どうせ私は、外へ出ても何か問題をおこして、ここに入れられてしまうのでしょう?」

梅子さんは、そういうことを言う。

「あきらめちゃいけません。あなたはいずれは外の世界へ出ていくべき人なんですよ。だから、そのために、薬飲んだり、お医者さんと話したりして、治療をいましているんです。だから、そんなこと言わないで、あきらめないで頑張りましょ。」

私は、彼女に完全にあきらめてもらいたくなかった。ここは永続的にいる所じゃないもの。きっといつかは外のせかいへやってくる日が来るのだと、彼女には思ってほしいのであるが、梅子さんは、そんなことを思えないのだろうか。

「梅子さんだって、あなたのことを待っててくれる人がここに必ずいるわ。だからそのことを思って、ここから出て生活することを考えて。」

私がそういうことを言っても、梅子さんはこういうのだった。

「いいえ、私は、もうそうなることは無理です。だって、私の兄は、二度と帰ってくるなと私が入院した時に言ったんです。だから、帰ってきてなんて二度と思っていないと思います。」

この言葉の真偽は定かではない。でも、梅子さんのお兄さんは、ちゃんと入院費もしっかり払ってくれているし、逃げようという姿勢も見せず、一人で梅子さんの家で暮らしていると聞いている。そんなお兄さんが、二度と帰ってくるなというセリフをはいてしまうかどうか。梅子さんはそう思っているらしいが、私は、そうだと思えなかった。

「お兄さんは、そんなこと言ってないわよ。言ったとしても、口が滑ってそういうことを言っちゃっただけの事よ。だから、あなたも、お兄さんに感謝しなきゃ。」

と、私はとりあえずのことを言ってみたのであるが、

「違うわ!兄は私のことを迷惑な存在だと思っているんです!私が、働かないで家にいるのをいやだと思っているんです!だから私がここにきて、俺もやっと気が楽になったなんていうんです!」

と梅子さんは言った。それ以上興奮させていけない。そうしたらまた精神安定剤を注射しなければならなくなってしまう。梅子さんが夜眠れないのは、それも理由の一つである。精神安定剤をそうして打てば、自動的に眠ってしまって、昼間眠り通してしまうのだ。でも、そうやってちょっとしたことで逆上してしまう彼女を、まだ保護室から出してしまうのは、いけないと医者は言っていた。

「まあまあ、梅子さん。もう少ししたら、先生がお話を聞きに来るから、お話は先生に言ってちょうだいね。」

と、私は、梅子さんをなだめた。梅子さんは、ごめんなさいといって、その時は静かになってくれた。それで、本当に解決できているかというと、何も解決には至っていないのであるけれど。

「じゃあ、先生が診察に来るまで、ここでまってて。その時に、ちゃんと言いたいことが在るのならちゃんと言って。」

と、私は、梅子さんにそういうことを言ったが、梅子さんが担当医をまるっきり信用していないのは知っていた。確かにこの病院ではそれなりに認められているのであるが、その権威というか忙しさのせいで、患者の事よりも医療雑誌の取材とか、そういう方が優先されてしまうことが在り、患者である梅子さんの診察をおろそかにしてしまうことが在るのだ。だから梅子さんも、その医者のことは信用していない。梅子さんがモンスターペイシェントと呼ばれてしまうのは、そういう理由もある。

「あの、原田さん、一寸お話があるそうです。ナースステイションに戻ってくれませんか?」

と、看護助手の若い女性が、私に声をかけてきた。

「じゃあ、ごめんね。後でゆっくり話を聞くから。また戻ってくるからね。約束するわ。」

と私は言って、また部屋を出て、カギを閉め、急いで廊下を走って、ナースステイションに戻った。この時、保護室の入り口の戸を閉めたかどうか、は覚えていなかった。

私がナースステイションに戻ると、須田梅子さんの担当医である、診療部長先生と、白い十徳羽織を着た、中年の男性がいた。今時和服で診療にあたるなんて、ちょっと時代遅れのように見えるけど、なぜか、そういう恰好をしていた。不思議な雰囲気をもつ人物であった。

「影浦千代吉先生です。」

と、診療部長先生は、早口で言った。

「影浦?」

と私は言う。下の名前が江戸時代にでもありそうな名前で、口に出して言えなかった。

「えーと、須田梅子さんの担当医は、今日から彼が担当医になります。影浦先生、よろしくどうぞ。」

「い、一体どういうことですか?」

そんな、担当医がいきなり変わってしまったら、梅子さんは私を含めて医療関係者を信用してくれなくなってしまうのではないか。私は、信用されないことが一番治療によくないということは、長くここで勤めてきたのでよく知っていた。

「彼女が、須田梅子さんの担当看護師で、原田美佐江さん。よろしくお願いしますよ。」

部長先生は私を影浦先生に紹介した。私は、一寸戸惑った顔をして、

「よろしくお願いします。」

と、だけしか言えなかった。そして影浦先生に頭を下げると、影浦先生は、右手を差し出した。私も戸惑いながら、右手を差し出すと、影浦先生は、にこやかに笑って、それを握りしめた。

「じゃあ、須田梅子さんは、非常に難しい患者だと言われていますが、二人でフォローして、彼女の治療にあたってほしい。よろしく。」

と、部長先生はそういうことを言ってナースステイションを出て行ってしまった。影浦先生は、わかりましたと言って、手をほどいた。

「じゃあ、患者さんに合わせてください。ある程度、部長先生や、コーディネーターの方から聞きましたが、やはり百聞は一見に如かず。直接会うのが一番です。」

「コーディネーター?」

と、私が思わず聞くと、影浦先生は、

「はい。須田梅子さんのお兄さんが、医療コーディネーターの方にご相談されまして、それで僕のところに、診察の話が回ってきたんです。」

と答えた。医療コーディネーターか。そういう職業の人がいてくれたというのは知っていたけれど、まさか彼女のお兄さんが、そういうひとのところに行ったというのが驚きだった。

「はい、彼女のカルテです。」

私は、影浦先生にカルテを渡した。影浦先生は、静かにカルテに目を通した。そして、すぐにご挨拶に行きましょうと言って、ナースステイションを出ていった。私も急いで、影浦先生の後を追いかけた。

私は、影浦先生と一緒に階段を上った。そして、保護室のカギを開けようとしたが、先ほど呼び出さた時に、閉め忘れていったらしい。扉は簡単に開いてしまった。まさか閉め忘れました、ということはできず、一寸困った顔をしていたが、影浦先生は、何も言わないでどんどん入ってしまった。私も急いで追いかけて、彼女の部屋まで案内する。

「この部屋です。」

と私は、須田梅子さんのいる部屋の前で止まる。わかりました、ありがとうと言って、影浦先生は、その部屋の戸をノックした。

「はい。」

と静かに声がする。よかった落ち着いていてくれた、と私はほっと溜息をついた。

「初めまして、この度新しく、あなたの担当医になりました。影浦千代吉です。どうぞよろしくお願いします。」

と、先生はそう言っている。

「ちょっと、あなたにご挨拶がしたくて、今日はお話に参りましたが。お部屋に入ってもいいですか?」

梅子さんはちょっと考えているのだろうか、少し間が開いて、、

「どうぞ。」

とだけ言った。

「それでは入ります。」

と、私と影浦先生は、部屋に入る。梅子さんは、それしかすることもないので相変わらず布団の上に座っている。

「須田梅子さんですね。僕が、新しい担当医になりました。影浦千代吉です。よろしくどうぞ。」

と、影浦先生は、床の上に座って、彼女と同じ目線になり、静かに座礼をした。そんな先生がいるのだろうかと思われるほど、腰が低いなと私は思った。

「須田梅子です。」

梅子さんは、一寸とまどったような顔でそう一言だけ言う。

「僕は、お兄さんから、相談を受けて、あなたの担当医になりました。お兄さんは、あなたのことを心配して、医療コーディネーターの方に、相談にいらしたんです。」

「兄が、そんなことしたんですか?」

と、梅子さんは、一寸疑い深そうに言った。まるで、兄が、そんなことをするなんてありえない話だとでも言いたげだ。

「ええ、お兄さんも、コーディネーターの方と一緒に僕のところに来られましたので、よく覚えております。お兄さんは、できることなら、妹に謝りたいと涙ながらにおっしゃっておられましたよ。」

「そんな、兄がそんなことしたなんて、そんなこと、あるのでしょうか?」

梅子さんは、戸惑っているようだ。私は、また彼女に安定剤を投与しなければならないかと、身構えた。

「ええ、だってそうしなければ、僕はここには来ませんでした。お兄さんは、とても後悔しているそうです。こんな評判の悪い病院に妹を置き去りにして、俺は何をやっていたんだろうと。あなたが、病院の中で、この病院は本当にきついと話していた原因を作ったのは俺だとさんざん泣いて。言い方じゃないですか。そうして、妹さんを苦しめたことに気が付いてくれたんです。精神障害のある方のご家族というのは、大体自分が正しいと思っていて、患者さんのほうが有利になるようなことは、絶対しないのが、ほとんどですから。」

「そうですか。ではまた兄がえらくなって、私はまた兄に迷惑をかけた悪い人間とされてしまうのでしょうか?」

と、梅子さんは、悲しそうな顔をしていった。梅子さんのような解釈は、精神疾患では普通にみられる。素直に喜べばいいのにと思われることであっても、悪いことをしたという解釈にしてしまう。そうしなければ家族がやっていけなくなるということも知っている。すべての悪事を、自分がしたというように解釈することが、家族を救う最善の方法だと思っている。

「いいえ、あなたは悪人ではありません。それに、あなたが自分をどんなに悪いと言っても、問題解決には至りません。其れよりも、あなたが家族に何をしたのか、家族はそれをどう解釈したのか、それが一番のカギなんです。それをどうしても見つけられないから、あなたは今ここにいるだけのこと。だから、僕たちが、あなたがこの世の中で暮らしていくためのお手伝いをしていきますよ。だからあなたも、必ず生きようと思ってください。」

と、影浦はにこやかに言った。彼女もそういうことを言われて、少し安心してくれるかなと私は思ったが、もう病気になってから何年もたってしまっていると、ある種のあきらめのようなものも、発生してしまうようである。

「そんなこと言ってくださるのは、先生くらいなものでしょう。私は、もうこの世の中からいらないいらない人間になったんです。どこで何を言われても私は、必要のない人間。それははっきりわかっているじゃありませんか。仕事もないし、働ける場所もないんですよ。私は、もうこの世からはっきりいらないと言われているんですよ。もう終わりだと思ったほうが、いいじゃありませんか。」

世の中からもう私は必要なくなった人間である。このセリフも、精神障害のある人が非常によく口にするセリフである。そしてそれを言われると多大なる迷惑になってしまうセリフでもある。だから、言いたいけれど言ってはいけないセリフとして、テレビドラマなどにも登場するときがある。

「いいえそんなことありませんよ。あなたのお兄さんが、医療コーディネーターを通して、僕をここに連れてきたのは、やっぱりあなたが必要だと思っているからでしょう。医療コーディネーターだって、あなたを世の中で不要と感じるのなら、動くことはしませんよ。それは、あなたの能力というか、存在してもいいということではないでしょうか?」

影浦先生の言葉に、彼女は、何か気が付いてくれたような表情をした。でも、その感情を成文化することはまだできなかった。それができれば、苦労はしない。逆を言えばそれができないで、暴れるしかできないから、ここにいるのであって。

「私、、、。」

そういう彼女に、

「じゃあ、近いうちに、扉を開けて階段を降りましょう。僕たちもあなたがそうなってくれるように、お手伝いします。」

と、影浦先生は、彼女の肩をたたいた。こんな事を言ってくれる医者なんて初めてだ。私は、やっと須田梅子さんにも、助かる道が見えてきたのではないかと思った。




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あの扉の向こう側 増田朋美 @masubuchi4996

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