第35話 “その日”の結末

「ロキ、これを」


 アルシアに向かって頭を下げていたセルディナは、姿勢を正すと、ロキに一枚の紙切れを渡した。

 白く小さな紙には、「街へ戻って、魔物を退かせて来て頂戴。貴方達は自由になったと、皆に伝えて」と書かれていた。


 ロキは何故、セルディナ自身が魔物を止めないのか、セルディナがロキと共に行かないのか分からなくて。

 心配そうな視線を向けるロキに、セルディナは「大丈夫だから」と、口の動きだけで伝えた。


「お願い、ロキ。誰かが魔物みんなを止めないと」


 少しだけ眉尻を下げて、セルディナが言う。

 声なんて聞こえなくても、セルディナからの「お願い」というセリフは、何度も言われたものだったから、ロキにはしっかりと伝わってしまって。


「本当に、大丈夫ですか?」


 思わず尋ねたロキに、セルディナは普段のように笑った。


「ロキ、私ね。……………」


 小さく呟かれた言葉に、ロキは何を言われたのか分からなくて。


「行って」


 セルディナの手に背中を押されて、ロキはその場を立ち去った。

 最後に一度だけ、振り返った地下室の中。セルディナはアルシアの事を見つめていた。立ち去るロキの事を、見もせずに。








「ロキ、私ね。貴方を縛る鎖になりたくないの。自由に、幸せになって」







 ロキが部屋から去っていく足音を聞きながら、セルディナは顔を上げることが出来なかった。


 あの日。

 義母グラシアに毒を盛られて、死の淵をみたあの日から、セルディナはいつ死んでも良いと思って生きてきた。

 だって、セルディナが生きることを望む人なんて、居ない筈だから。


 けれど、どうしてか。

 ロキに助けられて、一緒に生きて。

 濃くて苦い、独特な風味のお茶を飲んで。

 死ぬまで自由になれないと思っていた、屋敷の塀を簡単に飛び越えて。


『ロキ、お願い』

『……セルディナ様の、お心のままに』


 仕方ない、とでも言うような表情で、いとも簡単にセルディナの手を取って。

 一人だったら、絶対に見る事なんて出来なかった世界に、ロキはセルディナを連れ出してくれた。


 暗い森の中でも、空に輝く星は美しかった。

 寒い雪の下でも、体温を分け合うと温かくて。

 風に乗って空を飛ぶことが気持ちいいなんて、知っている人間はきっと、セルディナだけ。


 いつ死んでも良いと思っていたのに、ロキと一緒に居ると楽しくて仕方なくて。


『なぁ、セナ!ギナンが酷いんだ!アタシの事を馬鹿だ阿保だって!』

『馬鹿じゃなかったら、どうして屋根の上で昼寝をして落ちかけてンだ!この阿保!』

『ふふっ、ダリアったら屋根の上で昼寝なんてしたの?楽しそうね。私もやってみようかしら』

『……ダリアさんもギナンさんも、セルディナ様に変な事を教えないで下さい』


 いつのまにか、自然に笑えている自分に、セルディナ自身も驚いた。

 ダリアもギナンも、ロキが居ないと出会うことも出来なかった人達で。

 皆と一緒に居ると、楽しくて、幸せで。

 本当はセルディナも、ずっと皆と一緒に居たかったのだけれど……。



 ―――私が居るとロキは、本当に自由になることが出来ないでしょう?



 心の中で呟いた言葉は、セルディナがずっと考えていた事だった。

 ロキは優しくて、セルディナの事を守ろうと、いつだって尽力してくれた。


『セルディナ様、食事は私が用意をします。他の人の持ってきた物は食べないで下さい』

『ロキは、どうしてそんなに優しくしてくれるの?』

『……私がそうしたいから、では駄目でしょうか?』


 もしも、魔物を自由にすることが出来たとしても、国を変えるような行為は、きっと罪に問われてしまう。

 セルディナが罪人になったとしても、きっとロキは助けてくれるだろう。


 たった一言、「助けて」と。

 「ここから連れ出して」と言えば、ロキはセルディナの手を掴んでくれると、セルディナは確信していた。

 

 ……だけど、そこから先は?

 この先もずっと、セルディナはロキに守ってもらって、ロキの重りになるのだろうか?


 それは、ロキの幸せの妨げにしかならない。

 セルディナは、ロキの……否、ロキやダリア、ギナンも皆、やっと自由になれるのに、その妨げになるのが嫌だった。





「セルディナ、良かったのか?」


 残された部屋の中で、アルシアが尋ねた。

 おかしな口調だった。まるで、本当は逃げて欲しいとでも言うかのように。


 きっとアルシアは、セルディナが逃げようとしても、止めないのだろう。

 その証拠に、アルシアはセルディナを拘束しようともせず。力が抜けてしまったかのように、地面に座り込んでセルディナを見つめていた。

 このまま、背後にある階段を駆け上がって逃げ出せば、そのまま逃れられるような気もした。


「……ええ、勿論です」


 だが、セルディナがそれを選ぶことは無かった。


「これが私の描いたハッピーエンドですから」


 そんな事を言って、本当に幸せそうに笑うセルディナのことを、アルシアは悲しい顔で見つめていた。

 自身の居なくなる世界を、幸せと称したセルディナに、掛ける言葉が見つからなくて。


 程なくして、ダリアの<幻影>に惑わされていたラルムが正気を取り戻して、兵士を連れて地下室へなだれ込んできた。

 兵士がセルディナの事を拘束し、牢へと連れていく。


「シア様、どうか魔物の……いえ、魔法使いの彼等の未来を、今より悲惨なものにしないで下さい」


 セルディナは、連れていかれる最後の瞬間まで魔物の事ばかりで。

 ……それが、アルシアがセルディナと交わした、最後の会話だった。

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