昨日も来た、いつもの俺達のバー。

 電気はとうに来ていないからか、カウンター席と床にいくつか照明具が置かれていて、室内はぼんやりと明るい。

 見た感じ、俺と坂口さんと、少女以外には誰もいない。

「では、」

「いつから俺は『白樺』の一員になったんだ、とか、つまらん冗談はよせよ? その『白樺』の連中からわざわざ助けてやったこと、後悔させないでくれ」

「……ありがとうございます」

 礼を口にすると、坂口さんは満足そうに頷く。

 ──あの時、自分の作品を読み上げようとした時、それを遮ったのは聴き慣れた青年の声だった。


『──坂口安吾、桜の森の満開の下』


 淡々とした調子で紡がれたのは、美しくも恐ろしく、そして何より、切ない物語。

 空からは桃色の小さな花弁、いや、桜の花弁が、急な風にでも吹かれたかのように激しく降り注ぎ始め、俺達に近付いてきていた『白樺』の奴らにまとわり付いた。

 彼ら彼女らがどんなに暴れても、花弁を払拭することは叶わず、口元に入ったのか喉の辺りを掻きむしり、しばらくすると膝を地に着け、そのまま俯せに倒れていった。

 殺したのかと戸惑っていたら、いつの間にか傍にいたらしい誰かに、何か薬品でも含ませたらしい湿った布を口に押し付けられて……。

「ドラマみたいなことしちゃいましたねー!」

 俺とそんなに変わらない歳の、大分アレンジされたお下げ髪の少女が嬉しそうに言うと、

「だなー。織田はいっがいと……すきだらけ、だな」

 同意しながら、坂口さんは残り僅かなシガレットを一気に噛み砕いた。

 その姿からはとても、人を殺したようには見えなくて。

「そうそう、お前の『作品』だけど、途中で別れたよ。流石にここまで来させるわけにはいかないからな、安全な所にまで送って、そのまま」

「助かります」

 それも多少気にはなっていたが、ひとまず気になるのは……。

「──ちなみに『白樺』の団員は、生きているのですか?」

 勢いに任せて、そう問い掛けてみた。

「もちろん生かしてる」

 坂口さんは即答してくれた。

「空から降らしてた桜の花弁には、お前を眠らせた薬品と似たような効果を付与させてたんだよ。……あいつらと戦争する気はないんだ、なるべく穏便に済ませられるよう、事前に仕込んどいて良かったわ」

 跳ね気味の黒い短髪をがしがしと掻きながら説明する坂口さん。何故か鼻頭でなく頭の上に乗っけた眼鏡が、掻いた拍子に落ちそうになっていたが、それとなく落ちないよう手で直していた。

「備えあれば憂いなし、ですねー!」

 少女はそう言うと、その小さな両手を軽く叩き、

「さっ! お喋りはカレー食べながらでもできますし、早く食べましょうよ、冷めちゃうんですってば」

 床に腰を下ろしたままの俺の手を取って、立ち上がるよう急かしてくる。

 思わず、苦笑が零れた。

「分かりましたよ、お嬢さん」

 少女、もとい、お嬢さんの手を掴みつつ、自力で立ち上がり、彼女に手を引かれてカウンター席に向かう。

 座るのはもちろん、いつもの席。

 俺と坂口さんの間には、誰も座っていない。

「……」

 ぼんやりと、埋まらぬ空席を眺める。

 そこによく座っていた人物とは二年ほどの付き合いで、思い出すことといえば、三人で集まって雑談したり、売られた喧嘩を買ったり、誰かの『作品』の揉め事に首を突っ込んだり。

 その関係で『白樺』の仕事を邪魔したりしたもんだから、三人仲良く、第一級危険住人に認定された。

 どんな人だったか、何をしてたか、何を話したか、そんなことを思い出せば自然と頬が緩んでくるから、それなりに好ましく思ってはいるんだろう。

 いつまでものらりくらり生きてそうで、だけどあっさり死にそうな危うさもあって。

 結局、気付いた時には本当に死んでしまって、俺はあの人の歳を追い越してしまった。

 最近思う、時間が経つのはこんなにも速いのかと。

「お二人さんちゃーんと座りましたね! 今、お皿によそっていきますから、しばしお待ちくださいね!」

 そう言い残し、彼女は厨房へ。

 ここは電気もガスも止まってるはずだが(何故か水は使える)、どうやって温めたのか、なんて一瞬思ったけれど、愚問か。

 きっと、坂口さんか彼女自身の力でどうにかしたんだろう。

 俺の前には缶コーヒー、隣の空席と坂口さんの前には瓶の牛乳が置かれていた。

「これ、ありがとな」

 箱から一本取り出したココアシガレットを、俺に見せながら、坂口さんは礼を言ってくる。

 自分で買ったやつかと思ったが、昨日俺が置いていったやつらしい。なら、目の前の缶コーヒーも、俺が買ったやつか。

 腐らせずに済んで良かったと喜ぶべきか。

「……なんだかんだ、慣れるもんだよなぁ」

 そんなことを考えていると、ふいに、いつかの誰かみたいにぼんやりと正面を見ながら、坂口さんがそうこぼす。

「何にですか?」

「あいつがいなくなった日々に。んで、あの子が現れて、一緒に過ごす日々に」

「……ですね」

 これがもしハードボイルド小説なら、ブランデーのグラスでも傾けながら言えば様になるだろうが、現実の坂口さんの手の中にあるのはココアシガレットで、話の合間に美味しそうに囓っている。

「頼れる人がいないと言ったあの子に、自分が面倒看るって名乗り出た時は驚きましたよ。確かに、面倒見が良い人ではありますけど」

「お前が言うなよ」

「……っ」

 俺のは単なる尻拭いな所もあると思うが。

「まぁ、いきなり女の子を、肉付きは良くないとはいえ女の子を、二十も半ばの男が面倒看るとか言ったら驚くだろうな」

「そっちの心配は特にしてないですよ、そんな人ではないと分かってますし」

 俺の言葉に、彼は口元を歪めて、鼻をフンと鳴らし、

「女の『作品』に任せるって手もあったんだよな。なんならたまに頼ることもあるし。──けどよ、俺は坂口安吾を名乗らせてもらってる身だからよ、あの人の無念をこんな形で晴らせるなら、できる限り自分でどうにかしたいんだよなぁ……」

「……」


 坂口安吾の無念。

 とある友人の死の際に抱いたそれは、作品として後世に残されている。


 彼が彼にしたくてもできなかったことを、

 彼が彼女にしてあげる。

 三羽鴉の友情は、途切れることなく続いていく。

「お待たせしましたー! カレーですよー!」

 何となく感傷に浸っていたら、お嬢さんが大きめのトレーにカレーを三皿載せて持ってきた。

 俺と坂口さん、そして自分の分を順に置いていくと、トレーをそこらにほっぽって、彼女は自分の席に座る。

 ぽっかりと空いていた真ん中の席。

 あの人がいなくなってから、二度と誰も俺達の間に座ることはないだろうと思っていたのに──お嬢さんは当たり前のようにそこに座る。

 そのことを俺も坂口さんも、きっと太宰さんも怒ったりしない。

「さ、いただきましょ!」


 現状、彼女だけがそこに座ることを許されているのだから。

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