拾
昨日も来た、いつもの俺達のバー。
電気はとうに来ていないからか、カウンター席と床にいくつか照明具が置かれていて、室内はぼんやりと明るい。
見た感じ、俺と坂口さんと、少女以外には誰もいない。
「では、」
「いつから俺は『白樺』の一員になったんだ、とか、つまらん冗談はよせよ? その『白樺』の連中からわざわざ助けてやったこと、後悔させないでくれ」
「……ありがとうございます」
礼を口にすると、坂口さんは満足そうに頷く。
──あの時、自分の作品を読み上げようとした時、それを遮ったのは聴き慣れた青年の声だった。
『──坂口安吾、桜の森の満開の下』
淡々とした調子で紡がれたのは、美しくも恐ろしく、そして何より、切ない物語。
空からは桃色の小さな花弁、いや、桜の花弁が、急な風にでも吹かれたかのように激しく降り注ぎ始め、俺達に近付いてきていた『白樺』の奴らにまとわり付いた。
彼ら彼女らがどんなに暴れても、花弁を払拭することは叶わず、口元に入ったのか喉の辺りを掻きむしり、しばらくすると膝を地に着け、そのまま俯せに倒れていった。
殺したのかと戸惑っていたら、いつの間にか傍にいたらしい誰かに、何か薬品でも含ませたらしい湿った布を口に押し付けられて……。
「ドラマみたいなことしちゃいましたねー!」
俺とそんなに変わらない歳の、大分アレンジされたお下げ髪の少女が嬉しそうに言うと、
「だなー。織田はいっがいと……すきだらけ、だな」
同意しながら、坂口さんは残り僅かなシガレットを一気に噛み砕いた。
その姿からはとても、人を殺したようには見えなくて。
「そうそう、お前の『作品』だけど、途中で別れたよ。流石にここまで来させるわけにはいかないからな、安全な所にまで送って、そのまま」
「助かります」
それも多少気にはなっていたが、ひとまず気になるのは……。
「──ちなみに『白樺』の団員は、生きているのですか?」
勢いに任せて、そう問い掛けてみた。
「もちろん生かしてる」
坂口さんは即答してくれた。
「空から降らしてた桜の花弁には、お前を眠らせた薬品と似たような効果を付与させてたんだよ。……あいつらと戦争する気はないんだ、なるべく穏便に済ませられるよう、事前に仕込んどいて良かったわ」
跳ね気味の黒い短髪をがしがしと掻きながら説明する坂口さん。何故か鼻頭でなく頭の上に乗っけた眼鏡が、掻いた拍子に落ちそうになっていたが、それとなく落ちないよう手で直していた。
「備えあれば憂いなし、ですねー!」
少女はそう言うと、その小さな両手を軽く叩き、
「さっ! お喋りはカレー食べながらでもできますし、早く食べましょうよ、冷めちゃうんですってば」
床に腰を下ろしたままの俺の手を取って、立ち上がるよう急かしてくる。
思わず、苦笑が零れた。
「分かりましたよ、お嬢さん」
少女、もとい、お嬢さんの手を掴みつつ、自力で立ち上がり、彼女に手を引かれてカウンター席に向かう。
座るのはもちろん、いつもの席。
俺と坂口さんの間には、誰も座っていない。
「……」
ぼんやりと、埋まらぬ空席を眺める。
そこによく座っていた人物とは二年ほどの付き合いで、思い出すことといえば、三人で集まって雑談したり、売られた喧嘩を買ったり、誰かの『作品』の揉め事に首を突っ込んだり。
その関係で『白樺』の仕事を邪魔したりしたもんだから、三人仲良く、第一級危険住人に認定された。
どんな人だったか、何をしてたか、何を話したか、そんなことを思い出せば自然と頬が緩んでくるから、それなりに好ましく思ってはいるんだろう。
いつまでものらりくらり生きてそうで、だけどあっさり死にそうな危うさもあって。
結局、気付いた時には本当に死んでしまって、俺はあの人の歳を追い越してしまった。
最近思う、時間が経つのはこんなにも速いのかと。
「お二人さんちゃーんと座りましたね! 今、お皿によそっていきますから、しばしお待ちくださいね!」
そう言い残し、彼女は厨房へ。
ここは電気もガスも止まってるはずだが(何故か水は使える)、どうやって温めたのか、なんて一瞬思ったけれど、愚問か。
きっと、坂口さんか彼女自身の力でどうにかしたんだろう。
俺の前には缶コーヒー、隣の空席と坂口さんの前には瓶の牛乳が置かれていた。
「これ、ありがとな」
箱から一本取り出したココアシガレットを、俺に見せながら、坂口さんは礼を言ってくる。
自分で買ったやつかと思ったが、昨日俺が置いていったやつらしい。なら、目の前の缶コーヒーも、俺が買ったやつか。
腐らせずに済んで良かったと喜ぶべきか。
「……なんだかんだ、慣れるもんだよなぁ」
そんなことを考えていると、ふいに、いつかの誰かみたいにぼんやりと正面を見ながら、坂口さんがそうこぼす。
「何にですか?」
「あいつがいなくなった日々に。んで、あの子が現れて、一緒に過ごす日々に」
「……ですね」
これがもしハードボイルド小説なら、ブランデーのグラスでも傾けながら言えば様になるだろうが、現実の坂口さんの手の中にあるのはココアシガレットで、話の合間に美味しそうに囓っている。
「頼れる人がいないと言ったあの子に、自分が面倒看るって名乗り出た時は驚きましたよ。確かに、面倒見が良い人ではありますけど」
「お前が言うなよ」
「……っ」
俺のは単なる尻拭いな所もあると思うが。
「まぁ、いきなり女の子を、肉付きは良くないとはいえ女の子を、二十も半ばの男が面倒看るとか言ったら驚くだろうな」
「そっちの心配は特にしてないですよ、そんな人ではないと分かってますし」
俺の言葉に、彼は口元を歪めて、鼻をフンと鳴らし、
「女の『作品』に任せるって手もあったんだよな。なんならたまに頼ることもあるし。──けどよ、俺は坂口安吾を名乗らせてもらってる身だからよ、あの人の無念をこんな形で晴らせるなら、できる限り自分でどうにかしたいんだよなぁ……」
「……」
坂口安吾の無念。
とある友人の死の際に抱いたそれは、作品として後世に残されている。
彼が彼にしたくてもできなかったことを、
彼が彼女にしてあげる。
三羽鴉の友情は、途切れることなく続いていく。
「お待たせしましたー! カレーですよー!」
何となく感傷に浸っていたら、お嬢さんが大きめのトレーにカレーを三皿載せて持ってきた。
俺と坂口さん、そして自分の分を順に置いていくと、トレーをそこらにほっぽって、彼女は自分の席に座る。
ぽっかりと空いていた真ん中の席。
あの人がいなくなってから、二度と誰も俺達の間に座ることはないだろうと思っていたのに──お嬢さんは当たり前のようにそこに座る。
そのことを俺も坂口さんも、きっと太宰さんも怒ったりしない。
「さ、いただきましょ!」
現状、彼女だけがそこに座ることを許されているのだから。
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