織田作之助と、
玖
──可憐な花弁が、頬を撫でる。
一枚二枚なんてものではなく、数えるのも億劫になるほどの花弁が頭上から降り注ぎ、顔に身体に貼り付いて、気付けば視界を覆い、動きを封じる。
それは小さな、桃色の花。
暴れても暴れても、花弁は消えない。拭い取ることもできない。
助けを求める為か、暴言でも吐こうとしたのか、どうにか開いた口に、すかさず花弁が飛び込む。
窒息は時間の問題。
『──っ! ──っ!』
そんな状態にありながら、俺は叫んでいた。
誰かの名前を呼んでいた。
そして手を伸ばすも、何も掴むことはできない。
──そんな、夢を視ていた。
何とも不快な目覚めだが、意識を失う寸前にそんな光景を目の当たりにしてたんだ、嫌でも目に焼き付く。
どうせなら、また太宰さんに会えた方が良かったが……そんなことを思っても仕方ない。
さすがにしつこいだろうと決め付けて、瞼を閉じたまま、視覚以外の感覚で状況を確認する。
俺は仰向けに寝ているようで、それは前回と一緒だが、今度は平らな所のようだ。
風の音がしなければ、身体にあたるわけでもなく、埃っぽい臭いがするので、おそらくはあまり清掃の行き届いていない屋内にいるんだろう。
ひんやりとした、硬い床の上。
縛られてはいないみたいだが、安心はできない。
──瞼を開けたら、鉄格子のある部屋にいるかもしれないのだから。
耳を澄ますと、話し声や作業音が聴こえてくる。
俺以外に、この場には二人ほど人がいるようで。
それがテンとムホなら良かったが、彼女がいたら、俺を床の上に転がしておくことはないはずだ。
希望的な観測はしない方がいいかもしれない。
「……そろそろ」
「あぁ、頼む」
誰かと誰かの話し声。
誰か一人が、こっちに近寄ってくる。
一歩、二歩、三歩、四歩。
頭のすぐ傍で、相手は立ち止まる。
「──第一級危険住人・織田作之助、目を覚ましたなら早く起きなさい」
少し舌足らずな少女の声が、聴こえた。
起きろと言ってるわりには、本人の方こそまだ眠り足りなさそうで、どこかふわふわとしたその声に、敵意も冷たさも感じられない。
やけに親しげな声だった。
「……」
「嘘寝はだめです、朝になったんだから起きましょ。レトルトのカレー温めてるんですから、冷めちゃいますもん」
「朝からカレーですか」
思わずつっこんだら、カレーですと真面目に返された。
「織田作之助はカレーが好きなんです。そう決まってるんです。そしてカレーには牛乳です、だから私もカレーです」
「決めつけはよくありませんし、何がだからなんですか」
まぁ、普通に好きだけれども。
「細かいことはいいんです。とにかくカレーです」
面倒にでもなったのか、話し掛けてきた少女は屈んだようで、衣擦れ音と共に、彼女の声がそれまでよりもすぐ傍から聴こえた。
「ほらほら起きましょ。おにーさんも待ってます」
「……おにーさん?」
「はい、おにーさんもカレーです」
同じくカレーを食べるのかと訊いたわけではないけれど……まぁ、いいか。
「さ、さ、織田さん! おーきーるー!」
焦れた少女が俺の頬を叩き出す。地味に痛い。
仕方ないから、片手で少女の手をやんわりと払い、もう片方の手で目元を擦ると、ゆっくりと上半身を起こしていき、瞼を開ける。
彼女がここにいるなら、きっと、
「……いつからここは、留置所になったんですか?」
「そんなわけないだろ? ここは今も昔も、俺の隠れ家で、あいつの溜まり場で、お前の秘密基地だろうが」
ニヒルな笑みを浮かべ、ココアシガレットをぼりぼりと囓りながら、いつもの自分の席に座って──坂口安吾はそう言った。
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