「『その写真の人は眼鏡を掛けていたのだ。と言ってもひとにはわかるまい。けれど、』」

 気が付いた時にはテンの声が聴こえてきた。

 どうやら、まだ前の方ではあるものの、それなりに読まれているようで。

 仰向けに寝ているらしい俺の身体を、夜の冷えた風が何度も撫でていく。

「……っ?」

 負傷したのは頬と頭部だったはずだが、身体のあちこちがいくらか痛む。

 思いきり何かにぶつけた時の鈍痛だとか、木の枝や何かの破片で切ってしまった時の切り傷だとか、そういう痛みだ。

 それに、背中越しではあるが、どうやら平らな所に寝ているわけではないようだ。かなりデコボコとした場所で、脚の下には何もないのか、どこからか伝わる震動によって揺れている。

「……っ」

 ゆっくりと、瞼を開ける。

 ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていく。

 最初は一面真っ黒だと思ったが、その黒には若干青が混じっていて、周囲には薄汚れた灰色の何かがあるようだった。

「……」

 青混じりの黒は、星のない夜空。

 周囲にある大小様々な灰色の何かは、崩れ落ちてきた瓦礫。

 意識を失う前は屋内にいたはずだが、俺は今、外にいるらしい。

 痛みに悲鳴を上げる身体を無視して上半身を起こしていき、状況を確認する。

「……悔やまれます」

 あの状況で、気絶してしまったことを。

 良くてこのビルの倒壊、とは言ったものの、既に周辺のいくつかのビルが倒壊されている。……いや、破壊している最中だ、震動や音が止むことなく伝わってくる。

「『相当年配の人だって随分お洒落で、太いセルロイドの縁を』」

 テンは俺の傍にいた。

 外れたのか外したのか、掛けていた眼鏡はそこになく。

 怒りの表情を浮かべ、涙を流しながらも物語を紡ぐ口を止めることなく、ちらりと俺を見ると、すぐに真っ直ぐ、おそらくムホがいるであろう場所へと視線を向けてしまった。

 大丈夫ですか?

 止めないでくださいよ?

 どっちにも取れる目だった。

「『わざとではないかとはじめ思った。思いたかったくらい、今にもずり落ちそうな、ついでに』」

 そんな物語ではないのに、感情的に読み上げるテンの手には何もない。

 何も持たず、何も見ず、つっかえることなく物語を読み上げ続けている。

 暗記しているのか? ──否。

 これは『作品』だけでなく『作者』の場合もそうだが、力を行使する時、頭の中に本が出てきて、ゆっくりと頁が捲られていく。『作者』や『作品』はそれらを読み上げることで、各々の作品から連想した現象を引き起こすことができるのだ。

 バルの『アド・バルーン』なら、バルが所有する口座内の貯金額に応じて、重みが増すというもの。拳のみ、拳と脚に、という使い方もあれば、全身満遍なく使うこともあるそうだ。行使しても口座の金が減ることがないせいか、出し惜しみせず読み上げるので、人や物関係なく一番被害を出している。本人が気にする様子はない。

 テンとムホの『天衣無縫』なら、どんな力か──?

「……テン、あの女性はどうなりましたか?」

 答えてはくれないかもしれないと思ったが、一応訊いてみる。意外にも彼はきちんと答えてくれた。

 前を向いたまま、首を何度か横に振って。

「……そうですか」

 そんな日もある、この街では。

 ──だけどそれなら、もういいはずだ。これ以上暴れさせる必要はない。

 これだけの被害を出してしまったんだ、いつ『白樺』の奴らが現れてもおかしくはない。

「『──天衣無縫、ブックマーク』」

「……っ」

 俺がそう口にすると、テンはすぐに物語を紡ぐのをやめた。バルならもう少し続けてから文句を言ってくるから、こんな風にすんなりやめてくれると俺としては助かる。

 さっさと終わらせて、さっさと撤退したいんだが。

「テン」

 呼び掛けたが、テンは返事をしない。それでも構わずに続けた。

「ムホの回収、速やかにお願いしますね?」

 彼女の名前を出した途端、テンはすぐに動き出した。

 破壊音はいつの間にか聞こえなくなっていた。

 身体中痛むから、本当は肩でも貸してもらいたいくらいだが、俺よりもムホの方が介助が必要だから、諦めて自力で立ち上がる。

 足場や立つのに掴まった所も不安定ではあったが、崩れるようなことはなく、改めて周囲を見渡した。

「……」

 何棟のビルが倒壊したか、正確な数を出したくない。

 ここまでの厄介事は流石に無理だ、本職の方々に任せよう……。

 思わず、溜め息をついた。

「ムホ!」

 少し離れた場所で、テンがそう叫びながら片膝を落とし、何かを抱えるのが見えた。

「気は済んだ? もういいでしょ? 僕が悪かったんだよぉ!」

 泣きながら、それを抱き締めるテン。

 小さくて、赤くて、艶やかな黒が風に揺れる。

「所詮、君には人の気持ちが分からないなんて、そんな酷いことを言ってごめんね! そんなことないのにね!」

 青混じりの黒い夜、元々外に晒されている顔や手はもちろん、暴れていた時に服が破けてしまったらしい、そこから見える肌は、異様に目を引いた。

 生身の人間のものとは思えない白さと、無機質な滑らかさ。


「──人形は人形でストレスが溜まるんだもんね? 人形じゃないから僕にはよく分かんないけど!」


 肘や膝の間接部位に、球体が埋め込まれているのを見たことがある。

「だからさ、もう許して! 起きてよぉ! ねぇ、ムホ!」

 瞼を開けたまま、身動ぎ一つせず、テンにされるがままのムホ。

 いつもならばそんな状況、かなりの暴言をぶちまけながらテンを殴るのだが、今のムホにそれは叶わない。──俺がさっき、ブックマークをしてしまったから。


 ただの球体間接人形に戻ったムホは、光のない目でじっと、星のない夜空を眺めていた。

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