漆
「『その写真の人は眼鏡を掛けていたのだ。と言ってもひとにはわかるまい。けれど、』」
気が付いた時にはテンの声が聴こえてきた。
どうやら、まだ前の方ではあるものの、それなりに読まれているようで。
仰向けに寝ているらしい俺の身体を、夜の冷えた風が何度も撫でていく。
「……っ?」
負傷したのは頬と頭部だったはずだが、身体のあちこちがいくらか痛む。
思いきり何かにぶつけた時の鈍痛だとか、木の枝や何かの破片で切ってしまった時の切り傷だとか、そういう痛みだ。
それに、背中越しではあるが、どうやら平らな所に寝ているわけではないようだ。かなりデコボコとした場所で、脚の下には何もないのか、どこからか伝わる震動によって揺れている。
「……っ」
ゆっくりと、瞼を開ける。
ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていく。
最初は一面真っ黒だと思ったが、その黒には若干青が混じっていて、周囲には薄汚れた灰色の何かがあるようだった。
「……」
青混じりの黒は、星のない夜空。
周囲にある大小様々な灰色の何かは、崩れ落ちてきた瓦礫。
意識を失う前は屋内にいたはずだが、俺は今、外にいるらしい。
痛みに悲鳴を上げる身体を無視して上半身を起こしていき、状況を確認する。
「……悔やまれます」
あの状況で、気絶してしまったことを。
良くてこのビルの倒壊、とは言ったものの、既に周辺のいくつかのビルが倒壊されている。……いや、破壊している最中だ、震動や音が止むことなく伝わってくる。
「『相当年配の人だって随分お洒落で、太いセルロイドの縁を』」
テンは俺の傍にいた。
外れたのか外したのか、掛けていた眼鏡はそこになく。
怒りの表情を浮かべ、涙を流しながらも物語を紡ぐ口を止めることなく、ちらりと俺を見ると、すぐに真っ直ぐ、おそらくムホがいるであろう場所へと視線を向けてしまった。
大丈夫ですか?
止めないでくださいよ?
どっちにも取れる目だった。
「『わざとではないかとはじめ思った。思いたかったくらい、今にもずり落ちそうな、ついでに』」
そんな物語ではないのに、感情的に読み上げるテンの手には何もない。
何も持たず、何も見ず、つっかえることなく物語を読み上げ続けている。
暗記しているのか? ──否。
これは『作品』だけでなく『作者』の場合もそうだが、力を行使する時、頭の中に本が出てきて、ゆっくりと頁が捲られていく。『作者』や『作品』はそれらを読み上げることで、各々の作品から連想した現象を引き起こすことができるのだ。
バルの『アド・バルーン』なら、バルが所有する口座内の貯金額に応じて、重みが増すというもの。拳のみ、拳と脚に、という使い方もあれば、全身満遍なく使うこともあるそうだ。行使しても口座の金が減ることがないせいか、出し惜しみせず読み上げるので、人や物関係なく一番被害を出している。本人が気にする様子はない。
テンとムホの『天衣無縫』なら、どんな力か──?
「……テン、あの女性はどうなりましたか?」
答えてはくれないかもしれないと思ったが、一応訊いてみる。意外にも彼はきちんと答えてくれた。
前を向いたまま、首を何度か横に振って。
「……そうですか」
そんな日もある、この街では。
──だけどそれなら、もういいはずだ。これ以上暴れさせる必要はない。
これだけの被害を出してしまったんだ、いつ『白樺』の奴らが現れてもおかしくはない。
「『──天衣無縫、ブックマーク』」
「……っ」
俺がそう口にすると、テンはすぐに物語を紡ぐのをやめた。バルならもう少し続けてから文句を言ってくるから、こんな風にすんなりやめてくれると俺としては助かる。
さっさと終わらせて、さっさと撤退したいんだが。
「テン」
呼び掛けたが、テンは返事をしない。それでも構わずに続けた。
「ムホの回収、速やかにお願いしますね?」
彼女の名前を出した途端、テンはすぐに動き出した。
破壊音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
身体中痛むから、本当は肩でも貸してもらいたいくらいだが、俺よりもムホの方が介助が必要だから、諦めて自力で立ち上がる。
足場や立つのに掴まった所も不安定ではあったが、崩れるようなことはなく、改めて周囲を見渡した。
「……」
何棟のビルが倒壊したか、正確な数を出したくない。
ここまでの厄介事は流石に無理だ、本職の方々に任せよう……。
思わず、溜め息をついた。
「ムホ!」
少し離れた場所で、テンがそう叫びながら片膝を落とし、何かを抱えるのが見えた。
「気は済んだ? もういいでしょ? 僕が悪かったんだよぉ!」
泣きながら、それを抱き締めるテン。
小さくて、赤くて、艶やかな黒が風に揺れる。
「所詮、君には人の気持ちが分からないなんて、そんな酷いことを言ってごめんね! そんなことないのにね!」
青混じりの黒い夜、元々外に晒されている顔や手はもちろん、暴れていた時に服が破けてしまったらしい、そこから見える肌は、異様に目を引いた。
生身の人間のものとは思えない白さと、無機質な滑らかさ。
「──人形は人形でストレスが溜まるんだもんね? 人形じゃないから僕にはよく分かんないけど!」
肘や膝の間接部位に、球体が埋め込まれているのを見たことがある。
「だからさ、もう許して! 起きてよぉ! ねぇ、ムホ!」
瞼を開けたまま、身動ぎ一つせず、テンにされるがままのムホ。
いつもならばそんな状況、かなりの暴言をぶちまけながらテンを殴るのだが、今のムホにそれは叶わない。──俺がさっき、ブックマークをしてしまったから。
ただの球体間接人形に戻ったムホは、光のない目でじっと、星のない夜空を眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます