陸
「なんか、大変そうだねー」
──太宰さんが言った。
あの人はいつものバーのいつもの席に座り、俺はあの人の背中を見上げながら床に寝そべっている。
埃や汚れに塗れた床だが、不思議と不快な臭いは鼻に届かず、縛られてるわけでもないのに指一本動かせないのは、もしかしたらこれが現実でないからだろうか。
目の前に、太宰治がいる。
背中しか見えないが、その後ろ姿も、その声も、確かに俺の知っている太宰治その人のものだ。
だからこれは、夢なのだ。
「お久し振りです」
声を出してみたら、出た。
喋ることは可能なようだ。
「久し振りー。久し振り、なんだけどさ、会話になってないよ織田くん。大変そうだねって言ってんだから、大変ですよって感じで返そうよー」
「……たいへんですよ」
「棒読み? 棒読みだしオウム返し? 反抗期?」
反抗期って……。
「あなたの歳は追い越してますよ」
「え? オレ死んだ時いくつだっけ?」
「十八歳」
「今、君いくつ?」
「十九歳」
「すっかりお兄さんだ。時間が経つのは早いね、あんなに小さかったのに」
「出会ったのは五年前ですが、そこまで小さくなかったはずです」
むしろ、太宰さんの方が俺よりも小さくて、話題が身長のことになると、縮め縮めと何度言われたことか。
そんなことなど忘れたように、そうだっけ? と返す太宰さん。
こちらを振り返ることもなく、まるで動かず、ただただ前を向いたまま、言葉を投げてくるばかり。
「……それで、太宰さんがここにいるということは、待ち草臥れてついに迎えに来てくれたんですか?」
「はっ! 来なくていいよ、まだ!」
俺の言葉を笑い飛ばすものの、
「でもさ、早く起きないと、連れていくことになっちゃうかもね」
などと続けた。
「……」
それでもいいか。
いや、まだ早い。
そんな二択が浮かびかけ──打ち消すように、とある男の顔が脳裏に現れる。
「……確かに、まだ早いですね」
今回は、やめておく。
よく考えれば、街に何人もいる『作品』達を遺していくのは気掛かりだ。……それに、正直彼らよりも、放っておくわけにはいかない人がいる。
「ほら、もう行きなよ」
「それもそうですね」
もう少し会話をしていたかったが、あまり長居するのも良くない。
太宰さんに短く別れの言葉を告げて、瞼を閉じる。
結局太宰さんはずっと、後ろに振り返ることも、身動ぎすることもなかったけれど、最後にポツリと、
──またね。
俺が言ったのと似たような言葉を返してくれた。
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