どうやら歩いて行ける距離だったようで、テンに案内されて辿り着いたその場所は、昼間にバルが連れ込まれそうになったのと似たような、ほったらかしにされた雑居ビルがいくつも並んでいる所で、俺達はその内の一棟に入った。

「ここの五階に住んでるみたいで、お金を貸したその日にムホが確認に行ってるので、間違いないです。……引っ越してなかったら」

 不安そうに言いながら、慎重に階段を上るテン。

 エレベーターはあるものの、電気が通ってないようで使いたくとも使えず。非常灯も点いてない為、普段懐に入れているペンライトの頼りない光で前方を照らしながら上がっていく。

 テンが先頭を買って出た為、ペンライトも彼に持たせているが、暗闇が怖いのか別の理由か、震えているようでライトの光が揺れている。

 窓のない狭い内階段で、光源はペンライトのみ。真っ暗闇のこの状況で、突然何者かが襲いかかってきた時、すぐに行動できるか……。

 考えすぎだとか言えないような立場であり、環境なのがこの街なのだ。

 視覚に頼れないなら聴覚に頼るのみ。できる限り耳を澄まして上る。

 一階、二階は何もなく、三階で上から物音が聴こえ、四階で人の声──言い争っているかのような声が聴こえてきた。

「……ムホだっ!」

 本当に彼女の声だったかも分からない内に、四階へと駆け上るテン。

 俺は慌ててその背に続いた。


「ほんとにいるってんなら出せや!」

「だからここにはいないのよ!」


 真っ暗な空間で、女達の言い争う声がどこからかはっきり聴こえた。

 声は二人分。

 一人は分からないが、もう一人は──ムホのものだ。

「ムホっ!」

 テンは再び彼女の名前を叫び、勢いそのままに声のする方へと走り出す。

 ペンライトの光はブレにブレ、もはや前を照らしてはおらず、テンも俺も何かに足をぶつけたり躓きそうになったりするが、足が止まることはなかった。

「しつこいわね、何度同じことを言わせるの! 子供達は知り合いに預かってもらってるだけ、私はこれから仕事なの! いい加減帰ってちょうだい!」

「同じ戯れ言を何度も何度も! あてのテンを騙せても、あては騙されてやんねえぞ!」

 二人の傍まで来ると、どちらも早口に捲し立て、頭にかなり血が上っているようで、けっこうな足音をたてて来た俺達に意識を向けてはこなかった。

「……先生、聞きました? 僕のこと今、あてのテンって言いましたよね?」

 場違いな弾んだ声に、溜め息混じりに言った。

「良かったですね、これで心配事はひとまず横に置いとけますね」

「心配事?」

「忘れたんですか? ムホに失言をしたのでしょう?」

「うぐっ」

 どうやら思い出してくれたようで、そんな彼に、ペンライトの光を二人に向けるよう頼む。

 まだ口のみだが、このままだとその内手が出るかもしれない。

 キャットファイトを眺めるような趣味はないのだ、さっさと止めて、用事を済ませてもらおう。

 テンが光を向けるのと、

「うるさいのよこのメスガキ!」

 ケバい化粧に派手な衣服の女性が、真っ赤なゴシックロリータの服を身に纏う小柄な少女に殴り掛かったのは、ほとんど同時だった。

「……っ」

 まずい。

 そう思った時には、俺の足は走り出し、女性と少女──ムホの間に滑り込んでいた。

「え、せんっ」

 ムホが俺を呼んだ気がするが、頬に一発強いのを食らい、よく聴こえなかった。

 見た目のわりに腕力の強い女性だったようで(それが彼女の力なのかもしれないが)、俺の身体はそのまま床へと倒れていく。

 ゆっくり、ゆっくり。

 本来はきっと、あっという間なんだろうが、やけにゆっくりと倒れていっているように見えた。

 テンが光を向けていたはずなのに、視界は暗い。驚いたテンがペンライトをあらぬ方向に動かしているのか。


 ──許さない。


 ふいに、そんな声が耳に届く。

 どちらの声かは分からなかったけど、次に聴こえた声が誰のかは分かった。


「『──織田作之助、天衣無縫』」


 テンだ。

 他の作品なら、自分で読み上げながらその身で力を振るうものの、この二人の場合は、テンが読み上げ、ムホが行使する。

 この二人──特にムホの方が、少し特殊なのだ。

 そのせいか破壊力はどの『作品』よりも凄まじく、良くてこのビルのみ倒壊させられるだろう。

 女性に関しては、まぁ……頑張れとしか言えまい。

 これはきっと、『白樺』が来てしまう。

 そう考えると溜め息でもつきたくなるが、それはもう無理なようだ。

 床に頭を強く打ち付けると、何も聴こえてこなくなった。

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