第4話
1920年11月4日、東京駅で、ある人物が刺され、その場で死亡した。
殺されたのは
犯人は右翼の過激派で、原の政策に不満を感じていたらしい。人目につかぬように忍びより、ナイフでその心臓をつらぬいた。
原の死で、日本の政治情勢は大きく変わったが、その影響を最も強く受けたのがワシントンでおこなわれるはずの海軍軍縮会議だった。
強力な原の政治力が失われたことで、政府は大混乱に陥り、ワシントンへ送る代表団を組むことすらできなかった。
後任首相である加藤友三郎が体調を崩し、指導力を発揮できなかったのも大きかった。
会議は予定どおりの開催はできず、このまま立ち消えになるのではという声もあがったが、日本のみならず、欧米の国々にも軍事費の増大は喫緊の課題であり、何らかの形で軍備に制約をかける必要があるということで意見は一致していた。
結局、軍縮会議は、日本の政治情勢が落ちついた1922年10月31日からはじまり、翌23年12月15日に、四ヶ国条約とワシントン海軍軍縮条約の締結をもって終了した。
締結が大幅に遅れたことで、各国の主力艦は次々と竣工し、その中にはレキシントン級と日本の赤城級も含まれた。
4万トンを超える巨大戦艦は、各国の保有トン数に大きな影響を与え、軍縮会議の場で5万トンから10万トンが上積みが必要との提言がなされるほどだった。
それでは軍拡を煽るとの見方から、日本、アメリカ、イギリスは旧式艦の廃棄を増やす一方で、最新鋭戦艦の配備を極力抑え、艦艇の増大に歯止めをかけた。
サウスダコタ級や加賀型の戦艦が実戦配備されず、むしろ巡洋戦艦が保有が認められたのはきわめて政治的な理由からであり、各国とも不満を口に出しながらも、新鋭戦艦の廃棄は受けいれた。
その結果、レキシントンは1923年10月、サラトガは1923年12月10日に竣工し、翌年太平洋方面への配備が決まった。
二隻がハワイに入ったのは、1924年1月12日であり、以来、太平洋を守る壁として、日本海軍ににらみを利かせていた。
*
「理由はどうあれ、レキシントンとサラトガはこうして存在し、日本艦隊と戦うべく、太平洋を航行中だ。それは、喜ばしいことであろう」
ハルゼーの言葉に、マクモリスはうなずいた。
「同感です。これまで我々は出番がありませんでした。ここは実力を見せつけたいところです」
レキシントン級の二隻はハワイに留まっていたこともあり、西太平洋の海戦には参加できなかった。わずかにマーシャル沖で、日本の駆逐艦を牽制した程度である。
ようやく実戦の時を迎えて、乗員の士気もあがっている。彼が鼓舞する必要がないほどで、いまやレキシントンは最高の状態と言える。
ハルゼーは、瞳を正面に向ける。
視界の先、2カイリ(約3.7キロ)ほど離れた海域に、灰色の船が見てとれる。航跡を残して、レキシントンとほぼ同じ方向に進んでいる。
サラトガである。
42000トンの船体と16インチ砲は、レキシントン級と同等である。
TF21の旗艦を務め、司令長官のジェームズ・リチャードソン、参謀長のハズバンド・キンメル、作戦参謀のチェスター・ニミッツらが座乗している。
キンメルとハルゼーは海兵の同期で、気心はよく知っている。彼ならば、正しい判断を下してくれるはずだ。
「頼むぞ」
ハルゼーは、サラトガをにらみつつ、新しい指示を下した。
明日には海戦。そう思うと、血がたぎるのを抑えられなかった。
*
日米の巡洋戦艦部隊は、東西からウェーク島北方海域に進出した。
その動きはさながら引き寄せられているかのようであり、双方とも敵艦隊が接近していると知りながらも進路を変えることはなかった。
その結果、両者は最短距離を進み、4月14日早朝、ウェーク島北方150カイリで接触することになる。
艦隊が陣形を変えた時、両者の距離は2万5000メートルに達していた。
広い太平洋においては目の前であり、砲撃戦はもはや必至だった。
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