Lethe
函館のバスターミナルは混んでいた。次の出発は十五時二十六分で、一番端の停車場で、魔物退治に行くためのバスだった。往路のみで、復路はない。
バスの扉が開いて、並んでいた客は電子カードをかざすか整理券を取って入っていく。「途中停車はいたしませんので、ご注意ください」車内放送が告げる。すべての客はそのまま乗り込む。
乗客の顔ぶれはこんな風になる。英雄、老婆と子ども、大学生二人、宇宙飛行士、ライオン、フラワーメタル(大)。
バスの中にはエンジン音と子供の声が響く。子どもは膝に乗せた本を朗読している。
「『バスに英雄が一人、ライオンが一頭乗りました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
子どもの声に合わせてフラワーメタル(大)が揺れる。フラワーメタルは花を模したおもちゃで、音に反応してくねくね動く。大きいサイズのフラワーメタルだから、フラワーメタル(大)だ。
大学生は女子二人組で、スマートフォンを片手にそれぞれアプリコットアイスティーとフラペチーノを飲んでいる。
宇宙飛行士は黙っている。宇宙飛行士は宇宙へ行く前に着ていた服をすべてクリーニングに出してしまって、だから地球に帰還してからも宇宙服を着ている。きっとこれから服を受け取りに行くところだ。
バスが走りだしてしばらくすると、ライオンが言う。
「わたしはちっともそんなつもりはなかったんだ」
ライオンは残念極まりないというふうに遠吠えをする。それから英雄を見る。
「こんな車の中で争うつもりなんてまるで無かったんだ。しかしここには英雄がいる。いるからには英雄を食わないといけないな。わたしはライオンで、ライオンは英雄を食うものと決まっているからだ」
「勘弁してくださいよ」
英雄は言う。
「私は英雄派遣会社から派遣された竜退治専門の英雄なんです。猛獣退治の資格は所持してないんですよ」
ライオンは英雄に飛びかかり。英雄はライオンに食われる。
英雄の断末魔と肉を裂く音に合わせてフラワーメタル(大)は揺れる。
子どもは本を読んでいる。
「『おばあさんが銃を五発撃ちました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
老婆が猟銃をとりだし、骨をしゃぶっているライオンを撃つ。弾は五発発射され、そのうち三発がライオンに当たる。ライオンはもだえながら死ぬ。
ライオンの悲惨な末路を、大学生二人が動画に撮る。SNSに投稿すると、それはたちまち一万再生を突破して、二人は快哉を叫んで抱き合いキスをする。
宇宙飛行士は黙っている。ヘルメットのガラスにキスをする学生二人が反射している。
フラワーメタル(大)は揺れている。
子どもは本を読んでいる。
「『毒が流れてきました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
そう言ってから子どもは風船ガムを出して噛みはじめる。
外れた二発の銃弾によって窓ガラスが割れている。外には毒の霧が漂っていて、窓から這入りこんでくる。毒の霧を吸って老婆は死んでしまう。
キスをしていた学生と、風船ガムを食べていた子どもと、宇宙飛行士と、フラワーメタル(大)が残っている。
バスは走り、毒の霧を抜け、赤い道路に差しかかる。
子どもの風船ガムが弾けて、またクイズの本を読みはじめる。
「『火事が起こりました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
その道路は地獄に近く、舗装のひび割れから焦熱の炎が噴き出している。猛火の中をバスは進む。車体の底が燃えて、穴が開き、炎は床を這って迫ってくる。
学生の足元を火が焦がし、彼女たちは持っていたアプリコットアイスティーとフラペチーノで消火する。アプリコットアイスティーをかけた一人は助かるが、もう一人はフラペチーノの脂肪分が多すぎて余計に燃え盛り、ついには焼け死んでしまう。
残った一人はひとしきり嘆いたあと、空になってしまった紙コップを惜しむように振る。
「この先にカフェあるかな? タピオカ屋でもいいけど」学生は訊く。
「無いと思うよ」
「なあんだ、じゃあ帰ろ」
学生はそう言って、窓から飛び降りて行ってしまう。
バスは走りつづける。
フラワーメタル(大)は揺れる。子どもは言う。
「『バスに七人と一頭が乗り込んで、途中で三人と一頭が死に、一人が去りました』」
子どもはもう本を読んではいない。
「『さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
子どもは宇宙飛行士に向かって問いかける。
宇宙飛行士はその問いに答えなければならない。
「四人」しばらく考えて宇宙飛行士は言う。「運転手がいるから、四人だ」
「はずれ」子どもは告げる。
宇宙飛行士の身体が強張って、まっすぐな棒のように直立する。頭部のガラスの内側に液体が飛び散って、身体は倒れる。それきり動かない。
子どもの謎かけは続く。
「『バスに七人と一頭が乗り込んで、途中で四人と一頭が死に、一人が去りました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
子どもの首はゆっくり捻じれて、ついには真後ろを向く。子どもは、そこに座る最後の乗客に問う。
私に向かって問いかけている。
私は窓の外を見る。バスは川沿いを走っている。座席横の降車ボタンを押す。もうすぐ目的地に着くはずなのに、押しても押してもボタンは反応しない。
「心理テストで、こういうのがあるだろ」私は言う。「あなたは動物たちと旅をしています。旅の途中で水と食料が尽きたので、あなたは動物を捨てなければなりません。どの順番で捨てますか。っていうやつ」
「『バスに七人と一頭が乗り込んで、途中で四人と一頭が死に、一人が去りました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」子どもは言う。
「各動物は富や仕事といった要素を象徴していて、被験者が潜在意識において何を優先しているかを明らかにする、って触れ込みだ。例えばウシは富、ウマは仕事、サルは子、ヒツジは恋愛、みたいにさ。だけどそれって、対象物から想起される概念が被験者に共通するって前提のもと成り立ってるだろ。文化圏による寓意の違いを考慮してない。サルをまっさきに捨てると答えた人が、それを仕事の象徴とする文化で育っている可能性だってある」
「『バスに七人と一頭が乗り込んで、途中で四人と一頭が死に、一人が去りました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
「まあ実際は、遠く離れた地域でも、特定の動物のイメージが自然と共通することはあるらしいけれどね。昔話でもそうだろ、物語の構造あるいはモチーフには共通性があって類型化される。それはともかく、この問いに関する致命的な欠陥はもうひとつある。状況から考えられる選択肢が不十分ってことだ」
「『バスに七人と一頭が乗り込んで、途中で四人と一頭が死に、一人が去りました。さて、バスには何人が乗っているでしょう』」
「捨てる命を選ぶなら、もうひとつ勘定に入れなきゃいけない存在があるはずだ。自分自身だよ。人間ひとりに、ほかの命の取捨選択なんてできやしない、そんな資格ははじめからない、だったらまっさきに自分が死ぬべきなんだ。心理分析なんて言ったって、初めに自分の身を差し出さない時点で、全員自分が助かりたいだけの利己主義者にしかならないってことだよ」
「『バスには何人が乗っているでしょう』」
「……前提条件に不備があるクイズはフェアじゃないって言いたいんだけど」
話を逸らすのを諦めて会話に応じると、子どもは満足げに笑い声をあげた。薄い唇の両端がつり上がって、三日月の口が耳まで裂ける。子どもは、正しくは子供の姿をした魔物で、バスに乗った人間と遊ぶのが趣味なのだ。
あるいは人間“で”。
「気づかない方が悪いんだよ。それも含めてのクイズなんだ」悪びれた様子もなく魔物は言う。「早く答えてよ、ただし間違えたら命を貰うよ」
私の隣ではフラワーメタル(大)が揺れている。私も魔物も沈黙しているのに動きつづけている。壊れてしまったのだろうか?
バスは最後のカーブに差しかかる。フラワーメタル(大)が傾いて座席から落ちる。床の残り火が燃え移って、フラワーメタル(大)は燃えてしまう。私は頭上の荷物棚を見やる。持ち込んだ輪行袋がはみ出てファスナーが開きかけている、その隙間の暗闇を見つめる。
「3.3人」私は答える。
「それは、三人ということ、四人ということ?」魔物は訊く。
「3.3人は3.3人だよ」私は言う。「もういいだろ。べつに命くらいくれてやっても構わないが、今回のは皮肉が単調すぎるよ」
押しつづけていたバスの降車ボタンが、正解のチャイムのように点灯する。魔物はつまらなさそうに口笛を吹いて消えた。
バスが停まる。ブレーキは丁寧だが、はち切れんばかりだった棚の袋はとうとう開いて、そこから黒い糸状のものがこぼれだす。手を差し出して受け止める。それは人の髪だ。
髪を手繰ると、その持ち主の全身が引きずり出されて膝の上に落ちてくる。絹よりも美しく丈夫な黒髪の持ち主は、棚から落ちてもふてぶてしく気絶したままだ。
夜明けに倉庫で拾った彼女を、銭湯に連れて行ったらこんな時間になってしまった。彼女は塩サウナで塩を擦り込んででいるうちは滅茶苦茶に暴れたが、お湯につけると「ぎゃん」と言ったきり動かなくなった。それで彼女を輪行袋に詰め込んでバスに乗る羽目になった。
彼女の、腫れていないほうの頬を軽くつねってみる。張りのある肌だ。背が高いので気づかなかったが、思っていたより若い娘だと気づく。弛緩しきった身体を再び仕舞うのは骨が折れたので、私は彼女の脚を輪行袋からはみ出させたままバスの降車口に向かう。
「さっきの謎かけって……」運転席の傍で小銭を探していると、運転手が話しかけてきた。「どういう計算なんですか?」
私は運転手を見る。運転手が私を見ているかどうか分からない。ハンドルを握ったままの姿には首がなかった。
「私が1人、魔物が1人、半死半生が0.5人、きみが0.8人」私は答える。他の数え方もあるが、今回はそういうことにしておく。
「なるほど」と運転手は言う。首があったら頷いたのかもしれない。首なしライダーの乗物も時代によって様変わりしたものだ。それとも副業だろうか。デリケートな問題だろうから、尋ねたことはないが。
「運賃はちゃんと二人分払うよ」
私は再び財布に視線を落とす。小銭の発掘をあきらめて、紙幣を両替機に突っこむ。事前に用意していればいいのだが、こういう段取りがどうにも苦手だ。
「定期券にしたらどうです。お客さん、よく乗るんですから」運転手は言う。
私は考えて、首を振る。
「準備を万端にすればするほど、ふいになる気がして、どうもね……」私は言って、支払い口に小銭を落とす。「経験ない? ポイントカードを作ったきり行かなくなる店とか。ライターを新調したばかりなのに禁煙しなきゃいけないとか」
「ああ、ありますね」運転手も得心したようだった。「それでこのバスも、定期を買ったとたんに廃線になるんじゃないかと?」
うん、と私はうなずく。輪行袋を肩にかけなおす。「困るからね、自宅までの足が無くなると」
私が下りると、バスは回送の表示に切り替わり、動き出す。去った後には、フラワーメタル(大)の鉢が転がっている。床の穴から落ちたのだろう。花のすっかり燃え落ちた鉢は、蛇行しながら転がって、私の足に軽く当たっただけで割れる。
あらわになった鉢の中には煙草の吸殻がぎっしりと詰まっている。
それで私は、あの花もまた古い兵士だったことを知る。
家の中は暗かった。傍に流れている川の、せせらぎだけが夕暮れ色に光っていた。私は輪行袋を投げ出して、吸殻の中から見つけ出した、辛うじて中身の残る煙草を咥える。ライターはどこにやったのだろう。失くしたのか、誰かにくれてやったのだったか、覚えていない。仕方がないので台所のガスコンロで火をつけると、伸びきった前髪が焦げた。ひどいにおいだ、髪も煙草も。一口喫ったらうんざりして、吸いさしを流しに放り投げる。
かつて百万の煙がたなびいた世界で、最後の煙草はそのようにあっけなく消費される。
玄関から小さな咳が聴こえた。つづけて痛みに身をよじる気配。
私は息をひそめて耳を傾け、それから換気扇のスイッチを入れる。動き始めは大きく響く駆動音も、じきに落ち着く。
廊下に出る。暗い影の中でさらに黒い袋に包まれて、彼女が居る。私はその影に踏み込まず、ただ同じく冷たい廊下に座って、彼女の身体が緩やかに上下することで生まれる空気の揺らぎを感じている。傷ついた彼女にとって朝は遠く、私はそのあいだ、あのバスの中で魔物に負けていたら、ということを想像してみる。
私は死んでしまって、彼女の入った輪行袋だけがバスに残され、回送バスが車庫に入ってから発見される。首のない運転手は、袋に入った彼女をそのまま拾得物保管所に持っていくだろう。そうして彼女は、たくさんの忘れ去られた物たちと一緒に、保管所の隅で眠り続ける。いつまでも、いつまでも。そういう光景を想像する。あるいはそちらこそが現実で、この瞬間は彼女の見ている夢なのかもしれないと思う。今ここでこうしている私も、私が出会い言葉を交わす誰もかれも、すべてはひとりぼっちの女の子を慰めるための束の間の幻想なのかもしれない。
そう考えるとよく眠れる。
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