Pisces 2

 散歩に出たせいで熱が上がって、家に戻るなり私は寝込む。もっとも考えてみれば、あんな頓智気な散歩に出た時点で脳が茹だっていたのかもしれない。何にせよ私の身体は燃えるように熱く、おそらくは実際に燃えている。全身の穴という穴から煙が吹き出て部屋に充満している。「こんなのじゃあたしたちまるごと燻製になっちゃいます」歩が窓を開ける、新鮮な空気に煙は霧散する。件見物から戻った歩は心なしか青ざめていて、触れる手先までひどく冷たい。

「メイ様が熱いんでしょう、ほら、余計なこと考えないで安静にしていてください」歩はそう言って私の口に熱冷ましの錠剤を放り込む。身をひるがえすと、ツインテールを結ぶリボンの黄色がちらちら揺れる。向日葵みたいな色が季節外れだと思う。

「クチナシ染めですよ、ぜんぜん別物です」と心外そうに歩は言う。「もっと花の名前を覚えたらいかがですメイ様。いえ、植物でなくても何か、外の世界に興味を持ったほうがいいですよ。世界の解像度を上げれば人生は豊かで楽しくなります」

「べつに楽しむために生きてるんじゃない」

 呻きながら私は自分の枕をひそかに押さえる。焼け焦げひび割れた携帯ゲームがその下にある。私は私が倒したゲームの敵を思う。ドット絵で描かれた有象無象の名もない敵。だけれどそれは本当に名前を持たないというわけではないのだ。画面に表示されなかっただけで、彼女たち一人ひとりにも名前があった。私が背負うには長すぎる名前が。はじめからそのことに気づいていれば何かが変わっただろうか。

 黒い煙が止まったと思ったら今度は白い蒸気が耳から吹き出してくる。いよいよまずそうだと思って「歩」と私は呼ぶ。

「なんでしょうメイ様」歩が答える。

「ドーナツでハノイの塔をつくるのはやめなさい、天使が生まれてしまうから」

「それって困ることなんですか?」

「改めて聞かれるとそうでもないが、というかどうでもいいが、しかし指がべたべたになるし」

「え、うわ、本当だ」

 歩が私の手を取って言う。開いた指の間が糸を引いている。しかしそれは油でも汗でもなくて、私自身の身体が溶けているのだ。私の身体はじゅうじゅうと音をたてながら輪郭をなくして広がりはじめる。

 液状化する私を、歩は寸胴鍋で受け風呂へ運ぶ。私を浴槽に溜め終えると、歩は容赦なく水を足し、腕まくりした手を差し込む。「うん、いい湯加減」仕上げに私に入浴剤を放り込むと、服を脱ぎ捨て髪をほどいて入浴しはじめる。

 熱気に満ちた浴室で歩は私に身を浸す。私は歩の肌を滑り、長い髪を水面に揺蕩わせ、柔らかいところにも尖ったところにもすべてに触れる。あらゆる窪みに這入りこみ、傷跡を舐め、少し曲がった足の小指を受け入れる。歩は私をかき混ぜて、掬い上げ、指の一本一本に水流を絡める。歩から出る体液は私と混じり、私は歩の肌をふやけさせる。

 私に肩までつかった歩は、持ち込んだバラの花束をむしっては私の上にばらまく。切り花を買うのは趣味ではなかったはずだがと訝っていると「プレゼントされたんですよ、駅で、知らない人に」と言った。

「花とか手紙とか贈り物を色んな人に貰うんです、熱烈な告白と一緒に。モテ期ってやつですかね。ここ数日でどんどん増えてきて、街中でも呼び止められるくらいです。あたしはご主人様一筋ですから丁重にお断りするんですけれど、押し付けられてこのざまです」歩は嘆息し、その息が私を小さく波立たせる。

「今日も戻りが遅かったのはそのせいか」私は言う。

「いい迷惑ですよ。知らない人からの好意なんてただの暴力だと思いませんか? あたしはメイドであってアイドルでも神様でもないんですから、憧れや期待や劣情や信仰を寄せられたって嬉しくもなんともありませんよ。それに私に寄ってくる人みんな不気味なんです、目がイっちゃってるっていうか、死んだ魚みたいな感じ。自分の意志というより洗脳でもされてるみたいな……」

 私は改めて歩を視る。眼球が溶けた代わりに広がる水面に歩が映って、彼女のことはありありと分かる。歩の頭の後ろに彼女の因果律があり、天秤の針は振り切れぐるぐると回転している。ふだんはツインテールに目を奪われてばかりで、髪を下ろすまで気づかなかった。いつからそんな有様だったのか。くだんを見に行ったせいではあるまい。あれは潜んだ狂気を顕在化するだけで、新たな災厄を作るわけではないのだ。

「歩、こないだ酔ってたな。私の留守中に何を飲んだ」思い出して私は尋ねる。

「今更お説教なんてよしてくださいよ」歩は肩をすくめてしぶしぶ白状する。「物置の奥に埋もれてた赤ワインです。言っておきますけどあれ酸化してましたからね、ちっともおいしくないったら」

「あれは酒じゃない」

 歩が私から立ち上がる。私は彼女の背骨から尻のくぼみを伝い、同時に肩に垂らした髪からしたたり、胸の脇のなだらかな曲線をなぞって落ちていく。歩は皮膚にへばりついた薔薇の花びらを一枚ずつ丁寧に剥がして捨てると、いつもの通り細長いタオルで髪を挟むように拭きとり、いつも通りターバン状に頭に巻き付ける。いつも通りもう一枚の大きなバスタオルで全身を包む。そうしていつも通りに風呂の栓を抜いた。

「あ」

「あ」

 私は渦を巻いて排水口へと吸い込まれる。歩の悲鳴を遠くに聞きながら私は流されていく。下水に混じり、かき混ぜられろ過され放流され、川から海へと流れ、蒸発し雲となり雨となって地に降りそそぐ。そしてまた海へと向かう。空と地中と海の循環を繰り返し世界中を巡る。


 やがて枯草と坩堝のにおいがして、私は自分がペンタゴンペンダントの屋根に降りそそいだことを知る。

 ペンタゴンペンダントは人生の半ばまで医師をしていたが「人間を真に癒すのは舞台のみである」との持論を得てより後はそれを証明するべく自らが劇場になった。オーストラリアはゴールドコーストに落成した彼女は元の名前にもかかわらず十五本の柱を持つ十五角形型の建築だ。

 梁を伝って客席へ侵入した私は、雨漏りの信号で訪問を知らせる。

「やあ懐かしい顔だね、久しぶり」ペンタゴンペンダントは言った。陳腐な挨拶なうえ、そもそも今の私には顔がないのでまったく的外れだった。ひょっとすると彼女なりの冗談なのかもしれないがちっとも笑えない。人間のころからユーモアのセンスがない女なのだ。

「きみがそんな姿なのはかえって幸いだ。お茶を出さずに済む。あいにく電気も水道も止められているところなんだ」

 ペンタゴンペンダントは歌うように言う。私は観客席の破れたベルベットに染みとなりながら、たちまち蘇る不協和音を味わっている。断絶が懐かしいなんて妙な話だが、彼女との対話はいつもそればかりだ。同じ座標で同じものを見ているときでさえ、致命的に共有できない価値観のもとに私とペンタゴンペンダントは生きていた。温めなおす旧交はなく、縮める心の距離はなく、だからこそいくら時を隔てようが、まるで電車が通り過ぎる束の間に口を噤んでいたのと同じ調子で会話を再開できた。

「うちのメイドが魔性の血を飲んだ」私は言う。

「ああ、きみが昔、どさくさに紛れてかっぱらった……」記憶をふるい起こすように、ペンタゴンペンダントは舞台照明のバトンを揺らす。

「勝手についてくるんだよ最近は」

「しかしあれはずいぶん古いし希釈済みだったろ。普通の人間ならせいぜい一国が傾く程度、ボルジアの娘にも及ばないさ。よほど食べ合わせが悪くなけりゃあね」

「こないだ水曜日を食ってる」

「そりゃまた」ペンタゴンペンダントは絶句した。「生きてるのか?」

「いまのところはぴんぴんしてるが」

「その子のことが心配なのかい」

「がらじゃないのは分かってるよ」

 笑うなら笑え、と私は言った。それでペンタゴンペンダントは笑った。笑ったと思う。劇場の微笑みを感じるのは初めてだったので確証はないが、いつもにやついている女だから、きっと笑っていたはずだ。人間だったころなら、と私は彼女の表情を想像する。太い眉を少し傾けて、ずり落ちた眼鏡を中指で直す、いけ好かない顔がありありと浮かぶ。

「自覚がないんだなあ」ペンタゴンペンダントは言う。

「何?」私は聞き返す。

「きみが惚れっぽいのは昔からだったぜ。新しい恋人おおいに結構、大事にするといい」ペンタゴンペンダントは高らかに宣言し、そして付け加える。「陰気なツラで贖罪ごっこをつづけるよりははるかにましだ」

 彼女が何のことを言っているのか分からなかった。心当たりが多すぎて。座席をじゅうぶんに濡らした私は、柔らかくけれど擦り切れたカーペットへ染みを移しはじめる。

 ペンタゴンペンダントは語る。

「独りで生きていくことが罰だなんて、そんなのは言い訳だ、他人と関わりつづけるほうが重労働だ。わたしはそれをよく知っている。劇場となったわたしの中では演者が演奏家が歌手が踊り手が観客たちと共にいくつもの宇宙を作った。そこにあらゆる悲喜劇をみた。人間の感情の粋から雑然まで、大小はあれどそれらはすべて寄せては返す波のようだった。傷ついては癒される受け入れては喪う期待しては裏切られる、その繰り返しだった。わたしは楽園になりたかった。それは地獄を目指すことだった。今、寂びれた廃墟同然となってようやく、わたしは安心している。劇場としての歴史のうちに一秒たりとも後悔はないけれど、だけど、激動の中で心を擦り減らすのに比べれば、凪いだ孤独のなんと楽なこと。そうして、この安寧の中からきみのこと考えてみれば、その前途には素直に同情してしまうね。わたしは長い荒波を乗り越えて、あとは静けさを享受するのみだ。だけどきみは反対をやらなくちゃならない。一世紀単位で独り身を通したのちに、まともに他人と向き合うんだ、きっと死ぬほど面倒くさくて、楽しいぜ」

 嬉しそうな声だった。何がそんなに嬉しいのか私にはさっぱり分からなかった。こんなさびれた劇場になった彼女が、それでもなお未来に期待できるなんて不公平なことだと思った。

「私は過去を引きずってなんかない」勝ち目がないと予感していたが、苦し紛れに言い張ってみた。直後に墓穴だと気づいたが、ペンタゴンペンダントは指摘せず「うん、それじゃ、がんばれ」と言った。

「結局のところ、きみは単に怠けているだけなんだよ。長い人生、たまにはがんばれ。昔馴染みからの忠告は聞いておくもんだぜ」

 私は黙って床に垂れている。図星を突かれても逆上する気さえ起こらない。むしろ肩の荷が下りたような気さえした。安堵のあとはただ不思議だった。私の本性を分かっているなら、どうして彼女は話しかけてくれたのだろう。

「理由なんて後からいくらでも添えられるけど、せっかくだからきみがいっとう嫌がる言葉で飾ってやろう。わたしペンタゴンペンダントはきみの、」

 言葉の末尾は破壊される。ペンタゴンペンダントの壁を割って巨大な鉄の塊が飛び込んでくる。長いアームから吊るされた重りは一度引き返し、振り子となって別の壁を打ち崩す。とうとう解体が始まったのだ。私が雨となって降りそそぐ前から、ペンタゴンペンダントは立入禁止の札に囲まれていた。

 瞬く間にペンタゴンペンダントは取り壊されていく。柱が折れる。屋根が崩れる。床は割れ、その亀裂から私は流れ出す。

 地下へと落ちる間際、様変わりしたペンダゴンペンダントを私は見渡す。踏み込んできたクレーンがペンタゴンペンダントの瓦礫を蹂躙していく。無骨な重りを振り回す重機は、凶悪なハンマーをぶら下げた破壊の使者だ。

 無慈悲で残酷で不遜なハンマー。

「……スレッジハンマー、このクソ魔女!」

 重機の正体に気づいた私は吼えるが、しかし乾いた地面に染み入る身体はなすすべもない。

 最悪の魔女の哄笑を聴きながら私は流されていく。

 古い地脈を通りぬける。私の熱で石が割れては光を放つ。弾ける色のささめきを正しく聴くことが、私にはもうできない。だけれど、はじめから私が正しかったことなどあったのだろうか。私は私が触れられたはずのものを見落として、聞き逃して、素通りしてきた。一度でも知ってしまったら、過去に手に入れられなかったものたちへ執着が襲いかかってくるような気がして逃げていた。おそらくは今も。そうして私は海へと行き着く。

 広大な海に呑まれて私は揺蕩っている。思考は海水に薄められて拡散し、とりとめもない。このまま海流として生きればいいかと思いはじめる。私はやがて自我を失くし、すべてを忘れてしまうだろう、そのほうがずっと簡単だ。そんなことはとうに分かっていた。ペンタゴンペンダントに言われなくとも分かっていた。最後の最後まで私たちは無駄話をしたのだ。もっと話すべきことがあっただろうに、私はペンタゴンペンダントのことを何も知らないまま別れて、そしてもう二度と会わない。彼女とのわずかな記憶さえ泡になって離れていく。私の中を通過するマグロの魚群が、泡を餌と間違えて口を動かす。同時にかぎ針を飲み込んで釣りあげられていく。

 マグロと共に私は船の上に引き上げられる。透明な鱗から飛び散った私は甲板に水たまりとなる。海の上は夜だった。星空を映して光る私を誰かが踏んだ。彼女は躊躇なく座り込み、メイド服の裾を私で濡らす。

「やあっと見つけた、メイ様」

 歩は言って、指先を私に浸す。波紋が広がる。

「大変だったんですよ。メイ様が早く戻ってきますようにって毎日お祈りして、お願い事を聞いてもらえるように空を見上げて流れ星まで探したんですけど、ぜんぜん捗らないし。だから自分で迎えにいくことにしたんです。こうして頼み込んで漁船に乗せてもらって」

「迎えに来てくれなんて頼んでない」

「うわっそういうこと言っちゃうんですか?」怒りを通り越して呆れた、という風に歩は言った。「下水道暮らしのせいで卑屈さが増したんですか? そりゃ確かにあたしが勝手に苦労したことですし、報いてもらえるとは思ってませんけれど。メイ様が心から望むなら、このまま海洋深層水になるもアラスカの永久凍土になるのもご自由に。でも、もしも本心はそうじゃないなら、いつも通りの自暴自棄になっているだけなら、一度でいいからここに留まる努力をしてみませんか」

「無理だよ」私は言う。「がんばれって、なんでみんな私にそれを言うんだ。きみたちが精いっぱいに生きていることを否定されてる気になるからか? だったらそれは逆恨み、謂れのない嫉妬だ、どぶネズミを見て妬んでいるようなものだよ」

「みんながどうだか知りませんが、あたしはメイ様が必要なんです」

 歩は言った。

「ねえメイ様、不可算名詞のメイ様もポエティックで悪くはありませんでしたが、あたしはそろそろお家に帰りたいし、そのためにはメイ様に自分の足で立ってもらわなくちゃ。あなたを抱きしめたり抱きしめ返してもらうには両腕が必要だし、あなたの髪を結うのはあたしの天職だし、あなたにご飯を食べてもらうのはあたしの悦びなんですよ」

 手のひらを私に押しつけ、鼻先を甲板に寄せる。歩のツインテールは私の上で渦を巻き、彼女の吐息は私を揺らす。

「きみのペットを駄目にした」私は言う。

「え?」拍子抜けした声のあと、歩は首をかしげた。「ヒュドラくんのことですか? 良いんですよ、もともと試しに育ててみただけなんです。やだメイ様、もしかして、そんなこと気にしてくすぶってたんですか?」

 私は歩に指を絡める。絡めることができる。彼女に触れる指先から、口づける唇から、私の身体は構成される。夜の冷気に固められた私の全身を見て、歩は「ちょっと縮んじゃったんじゃないですか」と笑った。

 甲板の上で私たちは身を寄せ合う。私と歩のそれぞれの肉体はくっきりと分かたれて、だからこそ抱きしめることができる。身体はまだ熱かった。世界中の海域を巡ってもなお冷めやらぬ火照り。私はこれを抱えたままで生きるしかないらしかった。彼女を前にして熾る熱は永遠に治まりそうになかった。

 それでもすべてのものに終わりはくる。

 私たちは穏やかな波に揺られてまどろんでいる。波音に混じって、船の中からラジオが流れてくる。ニュース速報、とアナウンサーが告げる。世界各国の天文台が、地球と巨大彗星の衝突を予測しました。このままぶつかれば天体同士が砕け散り、地球は滅亡するでしょう。

 私は夜空を見やる。確かに降るような星空だ。こんなに星があるのなら、ひとつくらい地球に当たってもおかしくない気がする。

 いいやこんなことはあり得ないのです。とどこかの天文学者がコメントしている。彗星は唐突にあり得ない方向へと軌道を変えました。いったいどうしたことでしょう、まるで説明のつかない超常的なパワーで地球に惹きつけられているのです。

 私の隣には歩がいる。

 歩は私の肩に寄りかかって、まぶたはほとんど下りている。彼女の頭が傾くにつれて、引っ張られるような痛みを頭皮に感じる。結いなおされた私の髪は、歩のツインテールの片方と同じリボンで繋がれている。「ご主人様」と彼女は呟く。「流れ星、見つかりましたよお」

 空の片隅に、見慣れない星が一つ尾を引きはじめるのを私は視る。

 人類の皆様、とアナウンサーは沈痛な様子で告げる。もうすぐ世界は終わります。

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