Pisces 1

 蝋梅の樹の内部は案外広く屋台まで立っている。客は食事を受け取ると離れたところに腰を下ろして串を噛んだり汁をすすったりしている。そんな広場の片隅で私はもう懲り懲りだと思っていた雀卓についている。

 気持ちよくは打てない。二枚出た牌を待ってばかりいる。すり合わせる左手の爪がのこのようにざらざらしている。この身体の元の持ち主に噛み癖があるせいだが、麻雀が下手なのは私自身の性質で救いようがない。右足を揺すっているうちに靴が抜けた。もう片方もじきに同じようになった。三局連続で振り込んだところで堪らなくなって私は卓上にカバを召喚する。ウガンダの水路から雀卓に転移させられたカバは目を白黒させつつもでかい口を開けて威嚇する。台は潰れ牌は散乱し人々は逃げまどう。目論見通り対局は有耶無耶になって私とカバだけが残る。カバは我が物顔で私のそばを歩きまわり、短い尻尾を振って汚物をまき散らしている。私も退散したいのだが靴をどこかにやってしまって動けない。

 悪臭に鼻をつまみながら、さて私と打っていた三人は誰だったろうかと思う。一人は思い出したくもない相手だから思い出せないのだが、あとの二人はそうでもなさそうだった。なのに思い出せないということはずいぶんと昔の出来事か、あるいは未来の事象なのだろう。

 大きなほらのある樹を見かけたせいでこのような夢になったのだろうが、いつどこに生えていたのかは覚えていない。





 寝ている間にソファから落ちて、汗で湿った絨毯の上で私は目覚める。先日の温泉旅行から風邪のような発熱があって気分が悪い。喉が渇いて台所に行ったら、冷蔵庫のホワイトボードに『くだんを見に行きます』と書き置いてある。歩の字だ。手帳につけるときの丸文字ではなく斜めの走り書きで、相当に急いでいたのが分かる。そういえば夢うつつに扉の音を聴いた気もする。件なんざ本当のことしか言わないのに、何が楽しいのだか。メッセージの続きには『ヒュドラくんを散歩させてください』ともあった。私はテーブルを見る。おやつのつもりか、蛍光を発する色とりどりのドーナツが垂直に高く積まれている。その隣に携帯ゲーム機が置かれている。歩が掃除の途中で発掘してきたものだ。ボタンを押すと、ドットの粗いキャラクター画像が現れる。『ヒュドラくん』はいくつもの動物と植物を継ぎ接いだようでもあり、何にも似ていないようでもある。大戦前、奥羽の山に避暑に籠っていたころに遭遇した獣とも影ともつかぬもの、あれが一番近いように思われるが、だとしてもその正体を私は知らない。こんなものの世話をさせるなんて下僕のくせに人使いが荒い。

 私はもう一度ドーナツ皿を見る。わざわざ工作したのか皿の真ん中に支柱を立ててドーナツの穴に通してある。同じ皿があと二枚並んでいるが、そちらにはひとつもドーナツが通っていない。ドーナツは微妙に大きさが異なって下から大きい順になっている。その法則を崩さないように、私は私の皿にドーナツを移し替えようとする。

 元の皿をA、私の皿をB、残った皿をCとする。ドーナツは小さいほうから順に一番二番と附番する。ドーナツは十九個あったから最後は十九番になる。Aの一番をBに移動する。二番をCに移動させる。CにBの一番を移動させる。空になったBにAから三番を移動させる。Cの一番をAに戻す。Cの二番をBの三番に乗せる。Aの一番をBに乗せる。ここでBには三段のドーナツが順に積まれる。四番目をAからCに、Bの一番をその上に、Bの二番をAに戻し、Cの一番をさらにAに戻す。Bの三番目をCにある四番目に、Aの一番目を空になったBに、Aの二番をCに、Bの一番をさらにCに。これでCに四段が積まれる。以下同様の手順を繰り返す。二時間ほど続けたところで、すべてのドーナツを移し替えるには気が遠くなるほどの時間がかかると私は気づく。

 油まみれになった指先を服で拭いて、ゲーム機を持って家を出る。道路の端で片手を挙げると、やがて車が停まる。廃品回収車だ。私のゲーム機を見て回収屋は首を振る。

「それはまだ使えるじゃないか。廃品じゃないものは対象外だよ」

「それじゃあ私を運んでくれ」

 私は荷台によじ上り、がらくたに揉まれ運搬される。廃品の回収中は低速なトラックも、目的地を定めると乗用車並みの速度だ。吹きさらしの荷台で、乱れた髪から蛇が生まれては落ち、他の車に轢かれていく。私の後には潰れた内臓と体液が点々と残る。迷惑なヘンゼルもあったものだと他人事のようにそれを見送る。

 尻が痛くなってきて車を降りると百貨店の前だった。すれ違った家族連れの、父親に抱かれた幼児が悲鳴をあげるので、私はまだ蛇が残っているのだなと分かる。店内に入ると客も売り子も続々と泡を吹いて倒れた。私は奥へと進みエレベーターを待つ。扉が開く。中からエレベーターガールが「上に参ります」と告げる。私が近づいてもエレベーターガールは狂わない。エレベーターのボタンと階数表示を見てばかりで、私に焦点を合わせないからだ。私は乗り込み、扉が閉まり、エレベーターは上昇していく。フロアを通過するごとにエレベーターガールが売り場についての簡潔な説明を告げる。気圧差に軋む鼓膜がエレベーターガールの清涼な声に癒される。歩も件なんぞ見に行くよりエレベーターガールを見に来ればよかったのにと思う。

 屋上に出る。見上げる空は雲が低く這っていて、虎が喉を鳴らすような音がする。私は携帯ゲーム機を起動する。『ヒュドラくん』は死んでいる。丸い塚の上に墓標が立って、この上なく分かりやすい死のアイコンに私は驚愕し困惑する。言われたとおりに散歩に連れてきたのに。どうしてこうなったのだか分からない。しばらく呆然と画面を見つめていたが、次第に腹が立ってくる。そもそも世話をしないと死ぬなんて軟弱な設定が悪いのだ、プログラムのくせに、一丁前に墓なんぞ作って。忌々しいゲーム機を投げ捨てようと振りかぶったとき、誰かの嗚咽が聞こえる。

 私は声の方を見る。その誰かは膝を抱えてベンチに座っている。はらはらと涙を流すその姿に私は何故か二階扉を連想し、ゆえに私はそれが天使だと分かる。この世ならざるものの姿を精確に認識することは困難で、捻じれた印象でしか相対することができない。

 こんな高層に天使がいるのは珍しいなと私は思う。天使が上空に暮らすというのは迷信で、迷信といえども奴等が人の信仰に依って存在している以上ここ数世紀はまるきり間違いとも言いきれなくなっているが、とにかく私が今まで出会った五名の天使は五名とも地下を好んでいた。

「わたしはまだ生まれていない天使なの」天使は言う。

「生まれていないって、あんたはここに居るじゃないか」私は答える。

「わたしは自分の名前が分からないの。天使にとって名前が分からないということは自分が何の天使なのか分からないということよ。自分が何者か定まらないということは生まれていないということよ。だからわたしはまだ生まれていないの」

「だったらそのままでいいんじゃないか。この世にわざわざ苦労して生まれる価値があるものか」

「生まれてみなければ価値があるかもわからないわ」

 そう言ってまたさめざめと泣く。こいつは苦手なタイプだぞと私は後ずさる。泣いてさえいれば周りが問題を解決してくれると思っている、そしてそれが何となく許されてしまう。こういう類はスレッジハンマーの次に嫌いだ。関わらないに限ると思って目を逸らす。

「あなたのことを知ってるわ」天使は言う。「こんにちは巨人殺し」

 私は停止する。返事はしない。

「答えようが答えまいがあなたのことだわ。功罪以外に呼び名があるなんて、地上はやっぱり不便ね」天使の顔を覆う指の隙間から鈴のような声が漏れる。

「黙れ」私は言う。自然と声が低くなる。「次にその名で呼んだら全身の骨叩き折って丸めて縛ってバロット売りに卸してやる」

「あなたがわたしに協力してくれたら、もちろん黙るわ」

 私は舌打ちして天使へと向き直った。うつむいた天使の、つむじを囲んで光輪の赤い光が照っている。

「天使ってことは、あんたの名前はやっぱり数式でできているのか」私は尋ねる。

「ええそうよ。天使の名前は数式で、悪魔の名前は音楽よ。そんなの常識だわ」天使は答える。

「だったらたぶんあんたの名前はこうだ」私は彼女の頭上の光輪を指さす。その光輪はドーナツに似ている。

「①三本の柱と大きさの異なるドーナツが複数個ある。②はじめは一本の柱に積み重ねられている。③ドーナツは小さいものを上から順に積み重ねられており、④別の柱に移動させるときも小さいドーナツの上に大きいドーナツを乗せることはできない。この条件でドーナツを別の柱に移し替えるとき、ドーナツをn個、ドーナツを移動させる手数をMnとすると、Mn = 2ⁿ − 1。あんたの名前だ」

 天使がまばたきをすると、銀の雫がきらめいて散った。「本当に? Mn = 2ⁿ − 1。それがわたし?」私を見上げて天使は尋ねる。

「そうでなくてもそういうことにしたらいい。あんた自身が気に入ったならだけれど」

「もちろん」力強く天使はうなずく。「開封したばかりのティーバッグ缶みたいにわくわくして頼もしい、善い式だわ」

 背後の空から一条の光が差して、天使は立ち上がる。

「どうもありがとう。お礼に奇跡をひとつ起こしてあげる」そう言い残して天使は去る。

 天使が消えるか消えないかのうち、安っぽいファンファーレが鳴って私は持っていたゲーム機を見る。『ヒュドラくん』の墓の上から、角ばったメッセージが降りてくる。

≪ボーナスチャンス。このゲームをクリアすればあなたは命を生き返らせることができます。≫

「はあ」

 いきなりそんなことを言われても。

 啓示が消えると育成ゲームは一転してアクションゲームに変わる。電源を切るタイミングを逃した私はボタンを押す。

 背景は横にスクロールし、私の操作するキャラクターが自動的に進んでいく。数ドットしかない小さな敵が次々と、際限なく襲ってくる。私はそれを薙ぎ払って倒す。時折噛みついたり貫いたりもする。立ち向かってくる相手とぶつかり、時には逃げる相手を追い、とどめを刺す。延々とそれが続く。ゲームを進めてステージが切り替わるたびに、暗い画面に自分の顔が映る。引き結ばれた口に濁った眼、この世のすべてが気に食わないとでも言いだしそうな面。いつも通りだ。私はボタンを連打しゲームを続ける。作業として敵を処分していく。

 私はこのゲームを前にもプレイしたことがある。と思い出す。

 かつて私は寝食も忘れてそれに没頭した。私と敵対するもの、すなわち目に入るすべての生き物をひとつひとつ丁寧に潰し、骸の山を積み上げた。無為で残虐な行為の反復に時間と労力を費やした。何が楽しいのかと問われれば、当時であってさえ、何も、と答えただろう。私をつき動かしていたのは愉悦や充足感のためといった能動的な欲ではなく、もっと強迫的な観念だった。日々はいつも満たされず、続ければつづけるほど渇きはひどくなった。本当のところ、私はあの行為自体が好きだったわけではなくて、気を紛らわせることができるなら何でも良かったのかもしれない。恥の多い過去と膨大な未来に私は疲れていた。潰しても打ちのめしても無くならない可能性が私をいっそう惨めにさせた。はやく取り返しがつかなくなるまで堕落してしまいたかった。だから虚しい刹那を重ねてやり過ごそうとした。

 いくつ目かのステージを抜けると白一色の平原に出て、ボスの影が下りてくる。画面の半分近くを埋めるそのキャラクターは、数ドットの先鋒たちに比べれば描写が細かい。見えてきた足先に黒い靴が輝いていて、私はそれを妙だと思う。このゲームの最終ボスはスレッジハンマーのはずだが。あの魔女はこんな美しい靴は履かない。

 ワンフレームずつ勿体をつけて影は降りてくる。もうすぐ現れるはずの相手の顔を、何故だか見たくない気がした。

 動悸が強くなる。風が冷たいのに背中の汗が乾かない。舌の付け根からあふれる酸味に覚えがある。後悔しているときの味。歩のドーナツを食べておけば良かった。彼女の強烈な料理が私の味蕾を破壊しているうちはこの感情も忘れていられた。だから油断していたのだ。

 こんなゲームに乗るべきではなかった。死んだものを蘇らせることなんて誰にもできない。運命を歪めた先の地獄なら、身に沁みて知っていたはずなのに。それでも私はゲームを止められない。すでに逃避している私はもうどこにも逃げることはできない。

 画面の中で、私が対峙すべき相手の全身が現れる。同時に閃光と轟音が私の感覚を塞ぐ。

 天から落ちた雷は私の手元を弾き、ゲーム機は柵を越えて落下していく。下から短い悲鳴が聞こえ、静まる。

 あとには私が立っている。ゲームオーバーすら許されず、間違えたまま取り残されている。

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