Titan 3

 次の日、チェックアウトを済ませて駅へ向かうはずだった私は何故か反対方向の、街から繋がる山へと登っている。アンスリウムと東京が道を間違えたのだ。案内されながらおかしいとは思っていたのだが、気づいたときには手遅れだった。元来た道を振り返れば跡形もなく塞がれている。行きと同じ道は選べないんです、とアンスリウムと東京は申し訳なさそうに説明する。とにかくこの林を出るまでは登ってしまうしかないのだった。運動不足の身体に鞭打って私は歩を進める。樹上からは砕けた硝子が降って私の頬や腕を裂く。汗が滲んで、したたり、ぐっしょりと濡れた全身が不快で重い。やっとの思いで林を抜ければ、岩だらけの荒涼とした地が山頂までつづいていた。

 泥の乾いて干上がった川があって、その上流に人影が見える。近づいてから、昨日の食堂で言い争っていた男女の女のほうだと思い出した。

 男との諍いは解決したのだろうか、と女の様子をうかがって、その答えを聞くまでもないことに私は気づく。だらりと下がった女の片手には、男の頭部が握られている。残りの部分は足元に横たわっている。

 もう一万六千七百八十八回目の浮気だったんです。女は言う。

 彼言うんです。やっちゃいけないって頭では分かってるんだよって、でも仕方ないんだ身体が勝手に流されるんだって。それでわたしも分かったんですこのひとが浮気するのはこのひとの頭じゃなくて身体が悪いんだって、だから切り離さなきゃいけないんです。

 女が私を振り向き、顔半分がすっかり焼けただれているのを私は見る。食堂にナイフを返しに行かなくちゃ、と頬を撫でながら女はつぶやき、山を下っていく。

 ひどい疲労が押し寄せて、私はその場に座りこむ。休憩にしましょう。とアンスリウムと東京が言う。

 アンスリウムと東京は一服し、私はその膝に乗って蟹肉入りの握り飯を食べる。山の上から乾燥した風が吹く。むき出しの土壌を雲イワシの群れが滑り降りてきて、私をかすめ、アンスリウムと東京へ光を映し、移していく。アンスリウムと東京の体内は明るい宇宙だ。彼女の中に飛び込んだ一条の光は、複雑に屈折し反射し、長い月日をかけて外界へ放たれる。光のタイムカプセル。だとしたら、そこに私も居るのかもしれない。彼女の凪いだまなざしが私を映すとき、私の像は彼女の中に残り、彼女の中をじゅうぶんに何度も跳ね返って、彼女の身体を知り尽くしてから再び世界に送り出される。私はその私が少し羨ましい。

 通り過ぎてきた楠の林が歌っている。比喩ではなく、混声の合唱が私とアンスリウムと東京のもとまで響く。鳥の砕ける音が拍を刻む。一曲踊っていただけませんか、思い出に。アンスリウムと東京は言い、私は承諾する。アンスリウムと東京が煙を吹くと、尾根の近くに巨大な私の影が投影される。影絵のなかでだけ私とアンスリウムと東京の手は重なった。ダンスは想像していたよりずっと心やすかった。何より足を踏む心配がなかったから。

 楽しかった、と、踊りを終えて、アンスリウムと東京は満足げに言う。こちらこそ、と私は答える。

 それはお互い最初で最後の本音だったと思う。他人の心が分かるだなんて、そんなものは魔女でもなければ勘違いに決まっているけれど。その一瞬たしかに私たちの気持ちは同じ方向に動いていたのだ。

 私とアンスリウムと東京は街を見下ろしている。たぶん彼女がここに流れ着いたときからほとんど変わらぬ風景を。

 いつかあなたの街にも行ってみたい。アンスリウムと東京は言う。

 だけどあなたはどこにも行けない。私は答えてアンスリウムと東京を指さす。その腰には鎖が巻き付いている。何度もターンしたせいで、それは斬新なスカートめいて垂れさがっている。

 アンスリウムと東京は自分の姿を見下ろす。もちろん気づいていたのだ。とっくに分かりきった宣告を受けるために、アンスリウムと東京は私に対峙する。

 煙草だよ、と私は言う。巨人の煙草は他の生き物にはきつすぎる。魂を変形させてしまう。被害を広げないためにきみはこの街に縛られ、この街はまるごと封印されている。私だって旅行券が無ければ入れなかった。

 アンスリウムと東京は黙っている。彼女の頭の横に、亡霊のような三日月が浮かんでいる。街の外では満月が近いのに。この街にはもう本物の空というものはない。街を覆う封印の裂け目が、ほころんだ穴が、星や月のように見えているだけだ。

 アンスリウムと東京、この事態はあなたのせいだが、べつにいいんじゃないか。と、せめてもの慰めに私は言う。この街の生き物はみんな自分が不幸だとは思ってないだろう。案外楽園かも知れん、歌う植物、硝子の鳥、空飛ぶ魚に旨い蟹。

 だけれど。アンスリウムと東京が言いかけたとき、それを遮るやかましい音がする。

 数メートル先に横たわったままの、男の身体がもがいていた。首のない体はしばらく脚をばたつかせたのち起き上がる。目が見えないのでしばらく右往左往したあと、坂をほとんど転げ落ちるようにくだっていく。

 あんなふうに死ぬべき時に死ねない人間さえも、あなたは肯定できますか。アンスリウムと東京は問い直す。

 今度は私が沈黙する番だった。

 何を言うべきか分からず、けれども何かを言い返したかった。自分のことはいくらでも諦められるのに、彼女を諦めさせたくはなかった。私を満たすのは、怒りでも哀しみでもない、ただの傲慢だった。

 足下が揺れた。アンスリウムと東京は笑っていなかった。それでも地は震えひび割れはじめる。私は山頂を見上げた。灰色の雲に覆われている。

 いいえ、あれは雲ではありません。アンスリウムと東京はつぶやく。噴煙だ。

 ぐらつく大地に私は体勢を崩す。転倒し、宙に浮いた私の身体は、柔らかい手のひらに受け止められる。

 アンスリウムと東京。と私は叫ぶ。彼女をそう呼ぶことは運命の肯定だった。出会ったときから結末は決まっていた。なあ、こんな茶番劇やめてしまおう。私は懇願する。このまま私を握りつぶして逃げればいい。地上が塞がれているなら、穴でも掘って地球の裏側まで行けばいい。

 けれどそのように私がすがることすら物語の一部だ。

 アンスリウムと東京は注意深く私を地面におろして立ち上がる。もう顔も見えない。声もとどかない。鎖のスカートを跳ね上げて、アンスリウムと東京は足を前に出す。走る必要はない。たったの三歩でアンスリウムと東京は山頂に到達し、今にも噴き上がらんとする火口に身を投げる。



 巨人を飲み込んだ火山は力強く灰と溶岩を噴き上げる。煙草のそれではない、黒と、褐色と、うすい紫の混じった煙。アンスリウムと東京の混じった空気。アンスリウムと東京と歩いた道。降りそそぐ岩石をかわしながら私は逃げる。山を駆け下り街を抜け出て、見えてきた駅からは電車の出発音が鳴り響いている。改札に飛び込む間際、頭に軽くて固いものがぶつかった。車両に乗り込む。背中すれすれで扉は閉まる。動き出す列車の座席を確保し、脱力してから、私は自分の頭に何が乗っているのかを確かめる。蟹の甲羅だった。

 アンスリウムと東京の先祖は馬鹿だ。涙を失くすくらいなら感情ごと手放すべきだったのに。私と同じ大馬鹿者だ。

 彼女の居た街を私は一度も振り返らなかった。彼女の居なくなった街の結末になんて興味はない。別の誰かが語ればいい。私の旅程はそうして終わり、家に着く。

 うっわあ。玄関のドアを開けると歩がいて、灰まみれの私の姿に目を剥いた。これはまた、大はしゃぎでしたね。

 そう見える。私は短く問い返す。

 だってメイ様、昔飼ってた犬みたい。何度叱っても泥遊びをやめなかったんです。

 犬は嫌い。脚が五本ある猫のほうがまし。

 なんですそれ、なぞなぞですか?

 首をかしげる歩は電話の子機を握っていて、片手で通話口を塞いでいる。

 ああこれ、またいたずら電話がかかってきて。おかしいんですよ、自分のこと天使だって言うんです。

 二十分後にかけなおすように、と私は指示する。

 鞄と上着を歩に預けて、庭に向かう。ああもう掃除が大変じゃないですか、背後から不平が聞こえる。ねえ、ところでメイ様、どうして蟹なんてかぶってるんですか。

 私は答えず、庭へのガラス戸を開ける。裸足のままで地面に降りる。夕暮れでなくとも薄暗いそこは、幾本も刺さった鋏のせいで足の踏み場がほとんどない。わずかな空間を見つけ出し、蟹の甲羅で土を掘り返す。肘の半分程度の深さになったところで穴の底に甲羅を落とす。生臭さを発しはじめているそれを土に還して、私は短く瞑目した。すべての生き物の身体は、自身の墓穴を掘るために在るのだと、それは私の言葉ではなかったけれど、そう考えると少しは納得できる気がした。

 立ち上がるのも億劫で、そのまま金網にもたれていた。知らないうちに知らない植物がまた増えている。死にぞこないのひぐらしがどこかでしつこく鳴いている。日焼けて反りかえった葉の間から、鋏の柄の人工的な色が点々と浮いて、なんだかひどく現実感がない。夢心地のついでだろうか、脇の地面からするする山百合が伸びてきて、私の額にかぶさるように咲いた。馥郁たる香りと共に、電磁気風のノイズがその花の奥から発せられる。次いでスイッチの切り替わる音。

 まだ十九分だろ、と私は文句を言う。

 あなたが報告を怠ったからですよ。と、相手は応答する。花が喋っているのではない。これはただの定期通信だ。

 たまの休暇くらい大目に見てほしいね。私は言う。

 あなたご自分の立場わかってないんですね。極上の弦楽器の如き声は、冷徹と軽蔑に満ちている。うっかり身に覚えのない罪さえ告白してしまいそうだ。私は泥のついたつま先を丸めた。爪の中に砂利が深く入り込んで気持ちが悪かった。

 スレッジハンマーの居場所はつかめたんですか。声は問う。

 いいやちっとも。私は答える。

 見つけ出した場合は速やかに報告のうえ、殲滅作戦に移ること。あれは最悪にして災厄の魔女。この世の悪意を煮詰めた蟲毒。決して雪がれぬ業にまみれた唾棄すべき存在なのですから。

 よく分かってるよ。

 私は肘の裏にとまった蚊を見ている。それは私の皮膚の薄いところに針を刺し、数秒静止し、ひっくり返って落ちていった。私は花の向こうへ話しかける。

 そんなことよりちょうど良かった、こっちも聞きたいことがあったんだ。知り合いがそっちに行ったはずなんだけど、無事に着いたかな、どうも方向音痴の気があったから心配でね。

 死者の照会ですか。構いませんが、相手の本名をおっしゃっていただかないと。

 長い名前なんだ。喋ってるうちに終末が来るよ。

 その程度のことで規則は曲げられません。 

 すがすがしいほどのお役所仕事。これだから天使なんてろくな連中ではない。私はカーテンの隙間から様子をうかがっている歩を指で呼ぶ。歩は地面から突き出る刃を猫のように器用に避けてやってきて、私の膝を乗り越え、正面から密着する。歩は私の肩に顎を乗せ、腕を私の背中に回す。規則的な鼓動が私を満たす。

 私は百合の花を手折って彼女の髪に差す。黄金の筋に斑を散らした白い花弁も、こぼれる赤い花粉すら、彼女の黒髪によく似合った。

 今、何を考えてる?

 私はささやく。

 もちろん、ずるくて愛しくてちょっと磯臭い、あたしのご主人様のことを。

 歩は答える。私の後頭部に指をくぐらせ、埃っぽい髪を、毛先まで時間をかけて梳く。細い束ごとに丁寧に編みこみはじめる。心地よさに誘われて、私はまるで温泉に浸かったときの鼻歌のように、あの素敵な巨人の名前を謳う。

 この物語を語りはじめる」

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