Titan 2

 廊下の壁ぞいの棚に黒電話が置いてある。二日目の夜、私はその電話に初めて気づく。ダイヤルを回す。蛍光灯の切れる前のような音を挟んで、呼び出し音。ワンコールが終わらぬうちに相手が出て、お待たせいたしました、とすました声で言う。

 お電話ありがとうございます。こちら司怪異質物管理局。この電話はサービス向上のために録音されます。ご用件ごとに担当部課にお繋ぎいたします。絹のドレスで溺死したペキニーズについては一番を、3076年ピエモンテ産額縁については二番を、マーラーの弦楽四重奏が流れる窯炉については三番を、青い珊瑚の魔女については四番を押してください、その他のご用件については検察対象となることをご了解のうえそのままお待ちください……ありがとうございます、こちら司怪異質物管理局。この電話は録音・検分・査察されます。お電話は烏羽玉まくろがお受けいたします。ご用件をお話しください。

 何ふざけてるんだ、歩。

 あれーっメイ様だあ。毒気の抜かれた様子で歩は言う。いたずら電話かと思ったんですよ、最近よくかかってくるんです、電話線は抜いてるのにね。そんなことよりメイ様からのお電話なんてSSレア、ていうか幻覚以外だと初めてじゃん、じゃじゃじゃじゃーん、記念日としてカレンダーにつけておかなくちゃ。

 いつも以上に饒舌な彼女に私は眉をひそめる。ひょっとしてきみ酔ってるのか、きみ。

 だってメイ様ほんとにあたしのこと置いてっちゃうんですもの。秘境の温泉地ハネムーン、楽しみにしてたのに。だからちょっとした憂さ晴らしですよう。

 だらしない語尾が鼓膜に絡んでくるようで、私は受話器を遠ざける。とんだ不良娘だ。

 あたしのことをそんな風に言うのはメイ様くらいです。と彼女は微笑む。声だけで微笑んだと分かる。

 そっちの天気はどう。私は尋ねる。

 夕方に雨が降りましたけれど、今はきれいな月が出ています。月齢十一・六くらいかな。月はちょっとずつ地球から離れているって知ってました? 今日学校で習ったんです。だとしたら私が見ている月は、メイ様が昔見た月より小さいのかな、ね、どう思います?

 知らない、昔のことは覚えてない。だけどきみ、ちゃんと授業は聞いてるんだな。

 メイ様の言いつけですもん、それなりにやりますよ。部活はかったるいですけど……でも最近はそれも、ちょっとだけ面白くなってきました。小虎ちゃんっていう変な同級生がいて、突拍子もないっていうか、見ていて飽きないんですよね。

 はあ、そう、そいつは結構なことで。

 うわっ棒読み、興味なさそーっ、メイ様って集団生活向いてなさそうですもんね。友達も少なそうですし。

 少ないんじゃなくて一人もいない。これからもいらない。空が落ちても海が枯れても地が割れても。  

 私は廊下の奥の夜に目を細める。灯りははじめから点いていて、それなのにタールを塗り付けたような闇があった。それが潮の引くように失せていくのは、目が慣れただけだろうか。

 正常な明るさをとりもどした灯りから赤い虫が飛ぶ。火に飛び入るのではなく火から生まれ出た蟷螂は火の粉を振りまいて私の胸元をめがけてくる。旅館の薄ぺらい浴衣と包帯を焼き焦がし、私の肋骨の窪みへともぐりこみ、背中からは出ていかない。私はすっかり塞がった自分の胸を撫でる。湯治の効果はてきめんらしい。

 他人の生殺与奪の権を持っているひとはね、そう思い込まされているだけなんですよ。歩が言う。あなたのせいで不幸になる人間がいない代わりに、あなたのおかげで救われる人間もいない。そう考えれば楽になれますよ。

 何の話だ。

 何の話かって、聞きたいのはこっちですよ。メイ様、なにか悩みごとがあるんでしょう。だからわざわざあたしに電話してきたんでしょう。それなのに、普段は気にもかけない話題を引きのばしたり、かと思えば黙りこんでみたり、ちっとも頼ってはくれないんだから。怒ってるわけじゃないですよ、自分をさらけ出すのが怖いって気持ちは、きっと誰にでも……その臆病さを上回る信頼が得られないのはひとえにあたしの未熟さです。反省こそすれ、メイ様を責めるなんてお門違いな愚行はおかしません。あたしが言いたいのはね、メイ様。あなたの答えはあなた自身の中でとっくに出ているはずだってことです。自分が何をなすべきかあなたは知ってる。それでいてためらっている。この会話はただの時間稼ぎ。あわよくばこのまま時間切れになって、すべてうやむやに済んでくれないかと思ってる。予防注射に行きたくないってぐずってる子どもと同じ。ええ、ええ! あたしはそれで構いませんよ、ぞんぶんに無駄足を踏んで駄々をこねてくださいな、あたし子どもは嫌いだけどメイ様のことは好きですから。あなたの我儘を、あなたの狡猾を、あなたの怠惰を、あなたの堕落を、あたしは喜んで受け入れます。

 地面が揺れる。外でアンスリウムと東京が寝返りでもうったのだろう。天井から埃が降って湯上りの髪に吸い付く。棚が震えてしゃれこうべのような音をたてる。

 平気だよ。私は歩に告げる。言うまでもないことだから言わないだけだ。嘘ではなかった。常に問題が山積みならば、問題がある状態が平常だとも言えるはずだ。胸に手を押し当てたまま私は言う。そこはじんわりと熱を持っている。

 明日には帰る、土産は何がいい。私は尋ねる。

 ヨカナーンの首。短い砂嵐に遮られて電話は切れた。

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