Titan 1

「はじめましての挨拶を交わすのに、私たちは夜までかかる。長命な巨人族にとっては自己紹介の長さなどは取るに足りず、彼女らの名前はそれぞれ一編の物語になっているのだ。旅先で出会ったその巨人が名乗り終えるころには、私は宿に荷物を置いて、食事をとり、露天風呂に浸かっている。私はその巨人を『アンスリウムと東京』と呼ぶことにする。そうするしかないように思える。気の長い彼女と裏腹に私の温泉旅行は三日しかなく、すでにその三分の一は消化されつつある。

 乳酸の溜まった身体が熱いお湯でほぐれていく。山のふもとの温泉街に、正午には着く算段だったのが、最寄り駅の手前で電車が止まって徒歩になった。街に近づくにつれ白い靄が立ちこめていた。霧ではなくて煙草だと気づいて、私はその出どころを見上げた。それがアンスリウムと東京だった。

 失礼、と。アンスリウムと東京が私のすぐそばに手を浸す。温泉を掬って水煙管に注ぐ。うまいのそれ、と私は訊く。アンスリウムと東京は答えの代わりに煙を吐く。夜空を引っ掻いたような月が霞んで、針で突いたような星が瞬き、まさかその音ではないだろうがグラスの砕けるような澄んだ音色が響いている。

 温泉がふたたび溜まるまで、アンスリウムと東京が風呂に踵を突っ込んでかさを増す。突き出た右足の小指に、私は余ったマニキュアを塗ってやることにする。旅行鞄に放り込んだ小瓶がそのままになっていたのだ。刷毛のくすぐったさにアンスリウムと東京は身体を震わせ、そのたびに地面も振動する。波打つお湯が、私の胸の穴をじゃばじゃばと通過する。先日やむにまれぬ事情で開胸して以来、気軽に公衆浴場さえ入れなくて、だからこの温泉が私とアンスリウムと東京の貸切なのはありがたかった。

 ゆっくりしていらっしゃい、ここのお湯は万能ですから。アンスリウムと東京は私の傷跡をいたわるように言う。できることならわたくしも肩まで浸かってみたいものです、さいきんどうも腰が重いので。そう苦笑する。

 たった一枚の爪を塗るのにもマニキュア液は足りず、誤魔化すためには彼女の爪にあれこれをくっつける必要がある。転がっていた石ころ、落ちてきた松葉、夕飯に出てきたカニの甲羅。アンスリウムと東京はたいそうお気に召したようで、鼻歌を歌いながら横になり、私も眠る。

 

 翌朝の朝遅くに私は目覚める。部屋の向かいの林から鳥がやってきて窓辺にとまる。アカゲラ風の鳥は、間近で見るとガラスでできている。鳥が柱に嘴を打ち付けるとその衝撃で頭は砕けた。煌めき地に落ちる翼の破片を見て、私は昨日からつづく破裂音の正体を納得する。

 アンスリウムと東京に誘われて、私と彼女は散歩に出る。すれ違う住民たちはみんな気さくに挨拶してくる。旅行者が珍しいらしくあれやこれやと質問をされて、道行はちっとも進まない。急ぐ予定があるわけでもないが、もともと社交的ではない私はすっかり辟易する。アンスリウムと東京は見下ろしているだけで、私に助け舟を出そうともしない。ようやく解放されてから、恨みまじりに石を投げると彼女の脛に命中して、くすぐったい、と言った。

 アンスリウムと東京の案内はお世辞にもスマートとは言いがたい。気づけば同じ場所をぐるぐると回ったり、街の端から反対側まで足を伸ばしてから、その中間地点に引き返したりもする。街にはいたる所に巨大なオブジェがあって、その影で猫たちがくつろいでいる。巨大な椅子。巨大な眼鏡。巨大な金魚鉢。巨大なスリッパ。はじめはこの大きな家具たちを見つけてこの街に来たんです。とアンスリウムと東京は言う。ここなら巨人を歓迎してくれると思って。そんな意図はなくて、ただの前衛美術だったんですけれどね。そばに寄ってみたら、ぜんぜんサイズが合いませんし。

 アンスリウムと東京はそう言って巨大な便座に座ってみせる。その尻の半分以上がはみ出して私たちは声を上げて笑う。地面がまた震える。猫たちが揺れにとび起き尻尾を振りかざし、異常がないと判断してまた寝そべる。首輪はないものの人に慣れていて、しゃがんで手を伸ばすと喉を鳴らしてすり寄ってきた、その三毛の模様は絶えず動いて渦を巻いて、そのうえ脚が五本ある。 

 住民がまた通りかかって、猫がお好きかね。と私に尋ねる。その猫たちは地域のみんなで面倒を見てるんだ。この街にいる限りいくらでも触れ合えるよ。

 そいつは結構なことで。と猫の耳の後ろを掻きながら私は答える。 

 海もないのにここの蟹は絶品で、だから私は昼間に入った食堂でもそれを注文する。皿いっぱいの蟹を店の外に持ち出して、アンスリウムと東京の隣で、私は黙々と蟹を剥いては口に運ぶ。アンスリウムと東京は煙草を喫っている。半透明の巨躯は煙に濁り、右の小指のマニキュアだけが浮き出ている。それは白砂糖の砂漠に咲いたトリカブトのような色で、つまるところ薄い紫だ。

 あの子の瞳もこんな色でした。小指の爪をさすってアンスリウムと東京は呟く。

 私は蟹を剥く手をゆるやかにして彼女を見上げる。

 アンスリウムと東京は語る。

 あの長い戦争のあと、わたくしたちは南の大陸で穏やかに暮らしていたのです。幾たびの戦いを経てわたくしたちは疲れ果てていました。望みは安寧だけでした。けれどその願いすら長くは叶いませんでした。あの最悪の魔女、スレッジハンマーが現れたからです。あれこそ災厄そのものでした。それまでのどんな戦いとも違う。その暴力に目的はなく、強いて言うならば暴力こそが目的でした。あらゆる抵抗は無意味でした。果敢に立ち向かった者は叩きのめされ、情けを請うた者は引き裂かれ、身を潜めたものは磔にされました。そしてわたくしの娘も。あの子の吊るされた縄が軋んで、いっぱいに見開かれた目玉がこぼれ落ちそうで、それはこんな。

 アンスリウムと東京は言葉に詰まる。私が差し出したハンカチを、彼女は丁寧に辞する。

 だいじょうぶ、泣きはしません、巨人は泣けません。泣くと地上はたちまち洪水になってしまうから、涙を流さないように我慢して生きているうち涙腺が退化してしまったんです。

 アンスリウムと東京は言葉をつづける。

 わたくしたちはあの魔女によって滅ぼされることを知っていました。わたくしたちの名前たる物語はそれが真実であること以外に時空的制約を受けず、なれば必然過去だけではなく未来の出来事も語られる。わたくしたちの名前は歴史であり予言でもあるのです。実際その滅亡の物語は私の三番目の弟の名前でした。わたくしたちにとって運命は、未知ゆえに恐れるものではないのです。けれど、だからといってわたくしたちはあの魔女をゆるすことはできません。寧ろ既知であるからこそ、わたくしたちはあの魔女に出会う前からあの魔女ことを憎悪していた。あの魔女は安らかだった滅びの道に茨を撒いた。わたくしたちはあの魔女によって蹂躙された。

 正確には魔女とその共犯者によって。と私は訂正する。

 そう、魔女たち一味によって。

 魔女に仲間はいない、あれはいつだって独りだ。だからそこに居たのは魔女と、魔女に加担した卑怯で下劣な愚か者でしかなかった。しかし仲間でなかったとはいえ魔女の蛮行に手を貸したのは事実だ。どんな事情があれ、騙され操られていたのだとしても、被害者とは言えない。等しく罪人で、裁かれるべきだ。

 アンスリウムと東京は私を見下ろす。

 私は断られたハンカチで自分の口をぬぐって、店に皿と殻を返却しに行く。

 店の中では男女が一組食事をとっている。会話の内容に興味はないが、語気の強さから剣呑な空気なのは伝わってくる。

 常連さんなんだけど、ここに来るたび喧嘩してるんだあの二人。店番の青年が私にぼやく。

 私が勘定を済ませる間にも口論は激しさを増し、片方はフォークを握り締め、片方は湯気のたつスープ皿に両手を添えている。横目に見るのも危うくなってきて、私はレジに視線を戻す。カウンターには天使の置物が並べてある。今時めずらしい古い御守りだ。

 本物にはお目にかかったことないけどね。と青年は言う。ここの住民はみんな長生きだから。

 天使なんてあまり感じのいい連中じゃないよ。私は答える。

 ふたたび店を出ると、アンスリウムと東京が煙草を消していた。立ち上がると、上空の風は強いらしい、彼女に絡みついていた煙は押し流され、私はそのときはじめて巨人の顔を見る。

 もうやめにしようか、と私は言ってみる。何のことを指して言ったのか自分でも分からない。この散歩を、会話を、それとももっと根本的な何かを、どれにせよアンスリウムと東京の答えは決まっていた。

 いきましょう、最後まで。

 アンスリウムと東京は言う。

 私は彼女をアンスリウムと東京と呼んだことを後悔しはじめている。

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