Hermes


 コンビニに水曜日が売っている。インスタント食品の棚の隙間に『水曜日』と札がかかって、値段の記載はない。品物の奇妙さよりもコンビニで時価を謳うのが何より非常識に感じて、私は憤慨しながら目当てのカップ麺をあさり、ついでに文具コーナーで鋏を追加し、セルフレジに籠を置く。バーコードを読む。醤油味百六十円、豚骨三百六十円、文具ハサミ七百九十八円×五、シーフード味百四十円、うま塩味百二十八円、水曜日五千九百八十円、

「ああ?」

 店員に聞こうにも無人コンビニである。私はあきらめて支払いを済ませてコンビニを出る。適当に詰め込んだビニール袋の擦れる音も、水曜日が入っているのだと思うと気取って聴こえて癪である。

「どうするんですかそんなややこしいもの買ってきて」

 家に着くとあゆむが廊下を掃除していて、私の弁解を聞く前に非難がましく叫ぶ。「あたしは面倒見ませんよ。契約外ですからね」雑巾を盾のように構えて、そのむこうから胡散臭そうににらんでくる。縁日で色付きのヒヨコを連れてきたような反応である。

「いまどき屋台でヒヨコなんて売ってませんよ、縁日なんて行ったことないですけど、たぶん」

「私だって知らない。だいたい小動物を欲しいと思ったこともない。潰しそうで怖いだろ、考えるだけでうなされる」

「生き物を死なせちゃう夢ならあたしも見ますよ、いや実際死んじゃったんですけど、昔のペットとか。でも夢で予行演習ができたと思えば、少しはましだったのかも」

「その発想はなかったな、後味の悪い体験が単純に二倍になるんじゃないか」

「あらゆる他者との交わりは、はじまったときからお別れの準備ですから……って、またそうやって話を逸らす!」

 歩ははっとして、中断した掃除を再開する。とにかくあたしは知りませんからね、とそっぽを向いた拍子に長いツインテールが回転する。私が出かけるときにはまだ学校から戻っていなかったから、歩も家に着いてそれほど時間はたっていないはずだが、すでに簡素な黒いワンピースに白い前掛け、所謂メイド服の格好だ。まさかそのまま通学しているわけでもあるまいが。

 勤勉な彼女に追い立てられて私は自室に退散する。そのときに水曜日を靴箱に置き忘れる。気づいたころには暑さのせいか饐えた臭いを発していて、慌てて冷凍庫に突っ込んでおく。

 夕が暮れて、私と歩は食卓につく。

「すべては我がご主人様のために」食事の前に歩は祈る。メインディッシュがカップラーメンでも。

 私は胃薬を飲む。台所からは今日も煙が立ち込めている。

 ラジオの音量を上げる。鳴り響く火災警報機の音と合わさった奇怪な音楽が素通りしていく。私たちがデザートを食べ始めたころ、交通情報とニュースに切り替わる。アナウンサーが困惑しながら週間天気を読み上げて、あるべき日付が無いことに私も気づく。

 私は椅子から腰を浮かせ台所に向かうが、入口に虫の翅と何かの汁が散乱しているのを見て引き返す。「なあ歩」彼女の用意した小さな皿を指さす。「このシャーベット、材料は」

 歩は金のスプーンを振りかざし、「冷凍庫の中身ぜんぶミキサーに入れたんです。刺激的な味でしょう?」と平らな胸を張った。

 私たちはそれをすっかり平らげてしまって、だから水曜日は世界から消える。「平日が少なくなったから、もっとメイ様と一緒に居られますね」はじめこそ無邪気に喜んでいた歩は、部活が増えることになってげんなりする。私は燃えないゴミの日が何曜日に変わるかを考えている。

「人間の暦なんておやつに食っちまうくらいがちょうどいいのさ」

 カウンターに悠々と脚を伸ばしてスレッジハンマーは言う。コンビニは相変わらず人気がない。無人島に新種の蠅が漂着してもやはり無人島であるように、スレッジハンマーが居ようがいまいが無人コンビニは無人コンビニである。

 通行人に反応して自動ドアが開いては閉まるので、底抜けに明るい入店音が絶え間なく鳴る。

「ここの自動ドアは人に飢えているから感度が良いんだ。迎合する犬のようでかわいいからときどき愛でに来る」

 スレッジハンマーは言う。そんなことは訊いていない。スレッジハンマーに尋ねることは何もない。彼女の言葉は独白だ。下手に意思疎通を試みればその奔流に巻き込まれて二度とは浮かび上がれない。

「責任転嫁は止してくれ、それはぼくの専売特許だ。人間は勝手に破滅するんだ、きみも」

 スレッジハンマーの手には四角い紙箱がある。溶けたアイスクリームよりも甘ったるい声で彼女は言う。

「お買い上げ七百円ごとに一枚くじが引けまあす」

 箱に空いた丸い穴は暗く黒く、深淵につながっていると言われても不思議ではないほどだ。私はその穴を覗く。次に箱を蹴り上げる。箱は天井で爆ぜて、無数の紙片が降りそそぐ。鼻先に舞った一枚を指で挟む。「大はずれだ」ふたたび前を見ると、スレッジハンマーはもういない。

 世間はまだ混乱している。暦が狂ったせいなのか元々こういうものだったのか、おそらくは後者だ。ならば仕方ないではないか? 私もまた部屋の隅にサバとトマトとパイナップルの空き缶が溜まっていくことに目をつむって生活している。

 私の手元には二泊三日の温泉旅行券がある。

「はずれくじにしては気前がいいですねえ」感心したように歩は言う。

「きみは一緒には行けない。学校があるだろ」旅行券をポケットに突っ込み私は言う。「教育を受ける機会は逃さないこと。私の従者が馬鹿じゃ困る」

「ひとりでも勉強はできますよ」

「それじゃ家庭科のある日だけでも出席なさい」

 彼女が腕をふるうたび惨劇を見せる台所を思い浮かべながら告げた。

 歩はにっこり笑って、時間割を掲げてみせた。

「水曜日です」


 観念した私はその晩、鋏を持って裏庭に立つ。裏庭と言ってもこの家の表に庭はないのだが、敷地の余剰と言うべきごく狭い空間を正式な庭と呼ぶのもはばかられてそう呼んでいる。特に手入れもしていなかったのが、いつからか金網に朝顔が絡んでいる。歩が植えたのだろうか。夏は嫌いだ。宵闇がゆるむから。はち切れんばかりの生命力が、こんな私でも何かできるような気にさせるから。

 先端の丸い鋏は切れ味が悪く、四本を肋骨で駄目にしてから、五本目を何とか隙間に差し込む。てこの要領で肋骨をこじ開ける。肉をかき分け腕を抜く。内臓というのは体内に納まっているからそういう名であって、夜気に晒されたそれはもはや臓である。

 私の目の前には天秤がある。いつも通り針は振りきれている。傾いた秩序が私の目にはそう映る。世界は星の数ほどのそれに満ちていて、正す気力など始めから失われていた。そもそも抗ったところで正せるものなのかも知らない。絶望的な賭けだと思う。

 しかし少なくともスレッジハンマーとのゲームよりは勝率が高い。

 私は臓を皿に乗せる。曲線を描く腕が揺れ、それが安定しないうちにひとつふたつと雫が顔に当たる。たちまち大雨になる。穴の開いた胸へ泥水が入り込み、私は痛みにのたうち回る。泥と血だまりから見上げる家の明かりは消えている。

 家の中では歩が眠っている。初対面で将棋の駒を吐いたから歩と呼んでいるだけで、本名も聞いていない相手だ。知っていることはそう多くない。掃除に関して厳格な規律を持っていること。歯が人間にしては尖っていること。足音をたてずに歩けること。夜は部屋を真っ暗にして眠ること。長い髪を枕の外にまとめて垂らすのが彼女の寝方で、はたから見ると滑稽だ。そうしなければ髪が絡まるのだと歩は主張するけれど、根本の原因たるひどい寝相を直す気はないらしい。とがった唇から漏れる寝息が、私には今もはっきりと聞こえる。穏やかに上下する薄い胸、その下でせわしなく打つ心音。

「私だって間違えたと思ってるよ」私は呻く。「それでも私は、私が選んだものを他人にハズレだなんて決めつけられるのは我慢ならないんだ」

 天秤が止まる。豪雨を皿に受けながら秩序は平衡を得る。

 私は自分の選択を証明しなければならない。

 雨は翌朝には止み、文字通り晴ればれと水曜日は凱旋する。全身にこびりついた泥を洗われ髪をとかされ朝食のヨーグルトを口に運ばれている私は、朝の新聞でそれを知る。

 たったひとつの天秤が修正されたところで世界は改善しない。私は口に突っ込まれたスプーンを歯で噛んで、金属疲労ということを想う。一度曲げた金属をまっすぐに戻してもそこには疲労が蓄積し、いつか完全に折れてしまう。たまたま今日ではなかったというだけの話だ。

 飛ばされた暦を巻き返すために今週はずっと水曜日だという。そういうわけで歩の学校も毎日調理実習がある。

「おいしくできたらメイ様にも作ってあげますからね」

 子犬のしっぽのようにツインテールと手を振って、行ってきます、と歩は出ていく。私の腕は胴体と一緒くたに包帯でまとめられていて、だから手を振り返すことはできない。はじめて見送る歩が、趣味全開のメイド服ではなくきちんと制服を着ているので私は安堵する。右肩には教科書と水筒と体操着で膨らんだ鞄、左には楽器ケースを提げて。曲がり角に消えた彼女のそれからを私は想像する。アスファルトの地面を音もなく蹴って、彼女はここではないどこかへ向かう。軽やかな足取りに合わせて、風になびいたツインテールがほどけていく。彼女と街中ですれ違ったとして、私は彼女を呼び止められるだろうか。彼女は私を呼び止めてくれるだろうか。とっくに誰もいない通りに立ちつくしていたら、虹色の鶏が横切った。

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