DDA

準永遠

Gorgon

 日差しが投げた影のかたちで、私は自分の髪が四方八方ばらばらに跳ね回っているのに気づく。効率を重視して肩より上で切り揃えていたつもりだが、いっそ結んでしまったほうがまとまりが良さそうそうだ。思いついたからには髪を伸ばさねばならない。髪を伸ばすからには伸びた髪を乾かす下僕が必要である。それで私はスレッジハンマーを訪ねた。

 西麻布の雑居ビル四階が最近のスレッジハンマーの根城だ。むせかえるような香のなか、悪趣味な装飾の車椅子に踏ん反り返っている。足元には四つん這いになった男が五六人たかってむき出しになった彼女の脛を、ふくらはぎを、踵を、土踏まずを、つま先を舐めまわしている。海の癖が抜けなくて、陸に上がっても脚が乾くのを嫌っているのだ。私の脳裏には逆説的に、顔が濡れると力が出なくなる某絵本の主人公のことが思い浮かぶ。

「誰が頭に餡子の詰まった自己犠牲キャラだ」

 スレッジハンマーは青い珊瑚の血を引く魔女で、彼女がバミューダ沖の海底で産声をあげたとき真上で二万トンの貨物船が難破し酒が降りそそいだことにちなんで今の名がついている。生まれのわりには了見の狭い女だ。勝手に心を読んで勝手に憤慨するのだから世話がない。

「下僕くれよ。余ってるのでいいから」とっくに知れているに違いないが一応用件を言った。

「まあそう急ぎなさんな」豚共のよだれをつま先で跳ね飛ばしながらスレッジハンマーは答えた。「将棋でも指してかないか。きみが勝ったらいくらでも持ってけばいい」

 しかしその将棋の駒というのもみんなスレッジハンマーの下僕なので、私の言う通りにはてんで動かない。惨敗を重ね搾り取られて、ビルを出るころには五億の借金ができていた。もちろん払えるわけがなく、私はそのまま黒い車に乗せられて人身と人権を売り飛ばされる。非合法かを確認するのも野暮な店で身を粉にして稼いでは端から吸い上げられる生活を、しかし逃げ出す算段を考えるのも億劫なのでしばらく続けてみるが、やはり気持ちのいいものではない。いい加減うんざりしてきたところに当たった客が女の口蓋垂に擦りつけたがる変態野郎だったので、私は反射的にそれを噛みちぎる。その男が運悪くどこぞの野蛮な組織の幹部だったとかで私はふたたび連行され、爪を剥がされ健をちぎられ内臓を叩きのめされ皮膚を焼かれ内部を通電されたうえ空き倉庫に放り込まれる。

 重い扉の向こうで男たちが車をまわしている。このまま山中に埋められるか溶かされるか臭い海に沈められるかするのだろう。私の隣にはいつの間にかもう一人女が居る。どうせ同じような馬鹿をやって連れてこられたに違いない。ぼろ雑巾のようにぐったりとして、伏せた顔はまだらに鬱血しているが、その背中に垂れる黒髪だけは闇の中に艶やかだった。

「自分で手入れしてるの?」

「はい?」

 彼女はかすれた声で聞き返す。すぐそばで声をかけたのにあさっての方向を向くのは、鼓膜も片方やられているのだろう。

「その髪、綺麗だから、何かこだわりがあるのかと」

「はあ、まあ……」

 あった、と言うほうが正確かもしれません、と彼女は血だらけの唇をめくりあげて自嘲気味に笑った。その魂がまるっきり諦観に支配されているのを知って、成程、と私は呟く。同時に倉庫が開いた。男たちは私と彼女を引きずり蹴り上げ追い立てていく。足がもつれてうまく歩けない。折れているのかもしれない。これではスレッジハンマーを馬鹿にできないなとぼんやり思う。くずおれて咳き込む私にも、もちろん男は慈悲を見せない。髪を掴んで乱暴に引き上げる。髪。伸ばそうと思っている髪。伸ばそうとしていた、というほうが正確かもしれない。さっきの彼女を真似て笑ってみたがうまくいったかどうか。強制労働の合間に伸び放題だった私の髪は、汗と血液とその他諸々の体液が沁みついて悪臭を放っている。もつれて絡み合って混沌に至った私の髪は、だから、蛇となって鎌首をもたげる。何千何百の眼光が男たちを射抜くと、男たちのうちある者は泡を吹きある者は自らの目を突きあるものは別の男と刺し違える。全員が息絶えるのには五分とかからない。

 訪れた静寂に息を吐きつつ、私は重い頭を振った。興奮冷めやらぬ蛇の数匹がぼたぼた地面に落ちて、身をくねらせながら食ったばかりの魂を吐いている。宿主に似て後先を考えない蛇どもである。どうせなら拘束を解かせてから発狂させるべきだったな、と私は遅ればせながら考えている。後悔は次に活かすことにして、私は片腕の関節をはずして自由を得る。

 離れた場所でまだ黒髪の彼女が呻いていた。彼女の手綱を握っていた男もとうに絶命して、一人では立ち上がることもできずに投げ出されている。まぶたまで腫れあがって視界のきかない彼女は私と私の蛇を見ても狂わない。あるいははじめから狂っているのだろうか。「助けてほしい?」私は尋ねる。「べつにいいです……」顔も上げずに彼女は答えた。

「帰る場所もないし、心配してくれる人もいないし、どうせ、生きててもいいことなんかないんです……いっそこのままのたれ死んだほうが楽なんじゃないかなって……」

 私は腕をはめなおして膝をつく。コンクリートの床に扇状に広がる彼女の髪をすくいあげる。乱暴の限りを尽くされてなお透き通るような指通りだった。

「合格だ」私は言う。「今日からきみが私の下僕しもべ

 細い顎を両手でつかんで持ち上げる。百年と三年ぶりのキスは歯と歯がぶつかるぶざまなものだった。唇を離したとたんに彼女は小さく咳き込んで何かを吐き出す。将棋の駒だ。スレッジハンマーはやはりいかさまをしていたわけだ。この歩さえあれば私の勝ちだったはずで、なれば借金も帳消しである。私ははればれと彼女の戒めを引きちぎった。ふたりで手を取って立ち上がる。東の空が白んでいる。清潔すぎて苦手な朝陽とも、今日ばかりは和解できそうだ。まずは近場のスーパー銭湯でも検索しよう。

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