エピローグ

82

 ――二千十八年三月一日――


 病室で目覚めた俺は暗闇から解き放たれ、光の中に戻ったものの、まるでリセットされたように、記憶は何も残っていなかった。


 空っぽになった記憶を埋めてくれたのは、お袋が読み聞かせてくれた彼女や友達が送ってくれたたくさんのメール。

 

 そして彼女がノートに綴ってくれた文章だった。


 ――辛い現実……。

 辛いリハビリ……。


 挫けそうな心を支えてくれたのは、彼女の笑顔だった。


 彼女は毎日病室を訪れ、頬を真っ赤に染めノートに書いた文章を声を出して読んでくれた。それは俺の闘病の記録ではなく、学校や友達との楽しい会話や出来事だった。


 俺が彼女とどんな風に出逢い……

 俺が彼女にどんな風に告白したのか……。

 

 俺が彼女と過ごした大切な日々を……

 俺は何も覚えてはいなかったんだ。


 俺が眠り続けていた間も……

 きっと……色々なことがあったに違いない。


 それでも、俺のいない外の世界は……

 止まることなく、動き続けていたんだね。


 ――目覚めから、二週間後、ゆっくりではあるけれど言葉を発することが出来るようになった。記憶はまだ曖昧で、前日の出来事も忘れてしまうほどだったけど、彼女の笑顔だけは忘れることはなかった。


『……あ……り……が……とう』


 ゆっくりと発した言葉に、彼女は大粒の涙を溢した。


 ――俺は生かされたんだ……。

 漠然だけど、誰かの力で生かされた気がした。


 一度は失いかけた命……。

 だから、どんな困難にも挫けたりしない。


 ◇


 ――四月一日、日曜日――


「おはよう明日香君。お誕生日おめでとう!」


 希ちゃんの元気な声とともに、病室の中にドカドカと靴音が響く。そこにはサンタクロースのようにプレゼントを手にした男性や、花束を手にした女性の姿もあった。


「みんなが明日香君のお誕生日を一緒にお祝いしたいって。片岡先生の許可は貰ってるからね」


「……みんな……ありがとう」


「涼、お前話せるのか!? これ、エイプリルフールじゃねぇよな。俺、またお前に逢えるなんて嬉しいよ」


 坊主頭の男性が俺の前でオイオイと声を上げて泣いた。金髪の男性がそれを見てからかっている。


「……君は……だれ?」


「うわ、わ、まさかの!? 俺様を忘れたってか!? 田中司だよ。お前の親友だよ。まじヘコむし。ほら、松ぼっくりの田中だってば」


「ククッ……エイプリルフールだよ。……バーカ」


「バ、バカ? 俺のこと覚えてんの? なんだよ、驚かせんな。涼にバカって言われるなんて嬉しいよ。何度でも言っていいぞ。うん、特別に許す」


 田中は泣きながら笑ってる。

 顔面は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。


 友達の顔と名前は本当は忘れていた。でも、希ちゃんが携帯電話の画像を見せながら毎日教えてくれたんだ。そして今朝も。


 俺の友達に、また逢えてサイコーに嬉しいよ。


「明日香君よかったね。私達のところに戻ってきてくれてありがとう」


 希ちゃんがポロポロと涙を溢した。

 誕生日なのに、みんな泣いている。


 ――御礼を言わなければいけないのは俺の方だ。


 君に何度励まされ、救われたことか……。


 心から君へ……

 ありがとうの気持ちを伝えたい。


 俺は……精一杯の笑顔を、泣いている君に向けた。

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