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「……明日香君」


 私は明日香君の手を握る。

 あったかくて、大きな手のひら。


「明日香君が眠っている間に、角膜移植のドナーが見つかったんだよ。ママは角膜の提供を受け移植手術を受けたの。明日香君のお蔭で、ママは視力を取り戻したんだよ……。明日香君、ありがとう」


 明日香君は眠り続けてはいるが脳死は免れた。ご両親の闘いは、あの日から始まり……今も続いている。


 そして私も……。

 毎日不安な日々を過ごしているが、こうして明日香君の傍にいられることが、何よりも嬉しい。


「明日香君が眠っている間に、私の大学受験も終わっちゃった。四月から私も遥も光鈴大学の一年生、明日香君は休学したから、同級生だね……」


 四月一日生まれの明日香君。

 四月二日生まれの私。


 同級生でも、ちっとも不思議はない。


 片岡医師の話では、このまま数年眠り続け脳死に至る場合もあるが、数ヶ月後、奇跡的に目覚める可能性もゼロではないそうだ。


 だけど、たとえ目覚めたとしても何らかの後遺症は残り、記憶も欠落し、百%元通りの体に戻ることはない。


 だから……

 明日香君が少しでも思い出せるように、私は毎日の出来事をノートやメールに綴っている。


 私はニヤニヤ笑いながら紙飛行機を明日香君の閉じられた瞼の前に差し出す。


「じゃじゃーん! これは紙飛行機です。覚えてる? 私達が話すきっかけになった紙飛行機なんだよ。達哉君が捨てたなんて、嘘だったの。でも、きっとあれは達哉君の優しさだったんだね。うん、きっとそうだよ」


 達哉君は私と千春を仲直りさせてくれたんだから。


 紙飛行機を広げると英語の実力テストが姿を現す。雨にさらされたせいか回答も赤い丸も得点も色褪せ、何が書かれていたのか判読出来ないほど。


 でも私が綴っていた文字は、内側に折り畳まれていたため読むことが出来た。


「I like your smile(あなたの笑顔が好きです)」


 文字を読み終えると、急に寂しさが押し寄せ……涙が滲む。


 グスンと鼻を鳴らして、涙を拭った。


 明日香君の前で涙は見せない。

 明日香君の前で弱音は吐かない。


 明日香君の前で……

 私は笑っているって、決めたんだ。


「あはは、恥ずかしいな」


 笑っているのに、どうしてかな……。

 涙が溢れて止まらない。


 明日香君の前で弱音は吐かないって決めたのに……。ごめん、私はやっぱり泣き虫だね。


「明日香君……もう一度明日香君の笑顔が見たいよ……。私とママに……笑顔を見せてよ」


 明日香君の右手を握ると……

 微かに指先が動いた気がした。


「明日香君……聞こえてるの……?」


 明日香君の指先が……

 ゆっくりと動く。


「明日香君! 聞こえてるなら、ギュッと握って……」


 明日香君の掌が……

 私の手を握り締めた。


「……明日香君! 明日香君!」


 私は慌ててナースコールを押す。


 明日香君が戻ってきてくれた……。

 私達の元に戻ってきてくれた……。


 たとえ目が見えなくても……

 たとえ話ができなくても……

 このぬくもりがあれば……

 もう大丈夫だよ……。

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