【01】2021/09/06

ACT01「おはよう、大野くん」

 僕は、まだ子供だ。

 現実は甘くて、大人の社会なんて遠く離れた世界の話だ。

 成長するに連れてそんな大人達の目線に追いついて、社会の中で揉みくちゃにされながら戦っていくことが当たり前のことになるだろう――父さんや先生のような大人達はそう口を揃えて言うけれど、そんなものに実感が湧くはずもなく、大人達の言葉はまだ、遠い世界の話だと思って僕は聞いている。

 せめてこの制服に袖を通している間くらいは、未来を遠く見ていようと、そう僕は決めていた。

 努力しても叶う夢と叶わない夢があることぐらいは僕にだってわかる。今からどんなに努力を積み重ねたところで一国の支配者になることなんてできないだろうし、きっと宇宙へ飛び立つのも難しいだろう。そうして出来ることと出来ないことを取捨選択していくうちに、社会の中に自分のポジションが浮かび上がってくる。僕もいくつかの分岐点を経て、流れるように大人の社会というやつに順応していって、そうしていつの間にか一生を終えるのだろう。

 いつかは誰しも、大人になる。

 それはすぐかもしれない。

 確実にわかることは、向こうから勝手にやってくるということ。

 それまでは、子供でいよう。

 僕は、まだ子供なのだから――



 あれは、夢だったのか?

 西日の差し込む橙色の天井をぼんやりと眺めながら、僕は次第にはっきりとしていく感覚の中で思った。ひとまず自分の置かれている状況を把握してみる。四方は白いカーテンで仕切られている。部屋の窓が開け放たれているらしく、時折ひらひらと風任せにうねっている。夏の終わりとあって、空気はねっとりとした熱を帯びている。

 今度は視線を手元に。横たわるベッドの感触。純白のシーツ。膝まで掛かったブランケット。汗でぐっしょりと濡れた枕の感覚が冷たい。

 気分はすぐれない。当然か。今まで生きてきた十六年間の中で最悪とも言える夢を見たのだから。できることなら今すぐにでも忘れてしまいたい。そして楽しいことのひとつでも思い出したいところだけれど、なにひとつ浮かばない。それどころか、思い出しかけた楽しい記憶の先にあの悪夢が待ち構えていることに気づいてしまった。

 夢だと思いたい。なのにその夢には、決して夢とは言い難い現実味があった。実際に目の当たりにして、触れて、聞いた感覚が漠然とではあったが残っている。それに夢の内容と、現実の時間軸を組み合わせると、不思議なことにぴたりと合ってしまうのだ。

 とはいえ夢は夢。現実ではありえないようなことがその過程には組み込まれている。それでも、ひとつひとつを思い出さなければならない。何故なら、こうして唐突に学校の保健室で目覚めるという不可解な状況を理解するためには、まずはそこから始めなければならないのだから。

 ――伏せなさい、大野おおのあゆむ

 誰かにそう言われたことを、僕はふと思い出した。

 脳裏に強烈に焼き付いているのは、その言葉そのものだけではない。その声から始まったことがあまりにも不可解で、不愉快で、そして衝撃的だったのだ。言葉をきっかけに、僕はさらに夢の深いところまで鮮明に思い出していく。


 時間を、朝まで遡る。

 頭上でけたたましく鳴り響く目覚まし時計。いまどき古風な、耳のような二つのベルで金切り声を上げるやつだ。僕はその音でこの日の朝を迎えた。

 新学期が始まって一週間。夏休みを暑さ任せに惰性で過ごしたその生活リズムはまだ完全には戻っていない。ベッドの中で夢と現実の狭間をうろうろとしていると、今度は携帯電話の方が起床を促した。五分おきのスヌーズをたっぷり三回聞いて、ようやく僕は月曜日の訪れを認めた。起床し、ふらふらとしたままバスルームへ。おもむろに青い蛇口を捻り、冷水のシャワーで眠気を吹き飛ばす。

 制服に着替えて、朝飯として先日近所のコンビニで買っておいた菓子パンをかじる。それからリビングのソファにどっかりと座ってテレビの電源を入れる。映し出された時計の時刻を見て愕然。怠惰にもしゃもしゃと咀嚼していたそれをパック直飲みの牛乳で一気に流し込む。そして洗面台に駆け込んで急いで歯を磨いた。

 と、僕の行動をせかすように呼び鈴が鳴った。

 歯ブラシを口に突っ込んでいる僕は応えることができない。それどころか、呼び鈴に驚いてむせ返ってしまった。到底十七歳とは思えない、中年親父のような嗚咽交じりの咳が部屋に反響する。

 落ち着きを取り戻し、戸締りを確認して僕は玄関へと飛び出した。

 ふと、ドアの覗き窓を見てみる。

 携帯電話を睨みつつ、扉の前で待つ少女の姿があった。

少しウェーブの掛かったショートの黒髪を弄る仕草。不機嫌そうに細く歪めつつも、寛容さを見せるくりくりとした黒い大きな瞳。夏の日差しで小麦色に焼けた肌――そのひとつひとつに恋い焦がれ、何よりこうして一緒に登校できることが紛うことなき我が人生史上最高の春と言い切れる……が、まだ片思いの人。

 それがその少女、片瀬かたせ優莉花ゆりかである。

 片瀬とは同じ中学校に通っていた。とはいえそれを知ったのは半年前、高校二年生になってからのことで、進級のクラス替えで同じクラスになって初めて彼女の口から知らされた。中学時代にいたってはクラスが違ったから、その存在すら知らなかった。しかし今こうして同じクラスになって、席が隣で、いくつか中学時代の話題を経て仲良くなった。僕の家が通学路の途中にあることもあって、今では一緒に登校する仲となっている。

 すぐにでも彼女に挨拶を――と思ったが、ひとまず三歩下がって姿見に自分を映す。彼女の前に出ても大丈夫な恰好だろうか、身だしなみはどうだろう。寝癖のひとつでも見逃せば、その瞬間に僕の恋路は終わってしまうかもしれない、という危機感を持ちながら確認。ワイシャツの皺が少し気になるが、これくらいなら許容範囲内だろう、と自分で納得。

 ドアを開けた。

「おはよう。大野くん」

 その一言だけで、彼女は僕の心を射止める。耳を通って直接脳裏に響き渡り、心に絡みつく。それを至上の幸福と判断し、脳は僕の顔をぐでんぐでんに綻ばせようとする。それをもうひとりの自分がなんとか理性で繋ぎとめて平常心を維持しようとするものだから、僕は完全に硬直してしまった。

「なんだか元気無いね、夏バテ?」

 片瀬が僕の顔を覗き込む。下から見上げるような片瀬の仕草に僕の心臓は思わず跳ねた。恥ずかしさのあまり、僕は視線を明後日の方向へと逸らしてしまう。

「ど、どうかな。僕自身はいつも通りだと思うけどな……」

 返す声が上ずった。火照った顔を更に僕は赤くした。

 片瀬は、くすくすと笑っていた。

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