波田野家
①
「兄ちゃん、帰ってきとったん」
居間でごろりと横になって漫画を読んでいる兄の
「うん。昼過ぎにな。もう花のハウスと東側の茄子の収穫は終わった」
崇は漫画のページを捲りながら返事をした。浩輔が足音を立てて近寄る。
「滅茶速いな。やっぱり兄ちゃんすごいな」
「そんな事ない。元気しとったんか」
「うん」
浩輔は久しぶりに兄に逢えてうれしくて開くと泣いてしまいそうな口元をぎゅっと引き締めた。崇はずっと日に焼けていて色が黒いと思っていたが大学に入ってから色白になり、元々は母親と似て肌が白かった事を思い出す。母親が亡くなってからずっと家事と農作業を目一杯していたから焼けていただけだ。
「稲刈りは再来週やって。畑も大詰めじゃ」
「わかっとうよ」
「そやね。兄ちゃん、だいぶ痩せた?」
「そうかな? 無駄に筋肉ついとったからな」
崇は腕まくりをして随分細くなった腕を見せた。浩輔は心配して訊く。
「なんかあったが?」
「もう大人じゃけ、色々あるよ。それにしても浩輔、大きなったなぁ。昔はもっと可愛かったが」
「もう中学生じゃ。可愛いくもなくなるわ」
「かなしー」
そう言いながら崇は起き上がり、手首につけていたゴムでウェーブがかった髪を一つに括った。制服から作業着に着替えながら浩輔が崇に訊く。
「大学長い事休んでもええの?」
「ん? 今、夏休み」
荷物を引き寄せ、中を探りながら崇は返事をする。
「そんな長かったけ?」
「まぁね」
崇の大学は地元から随分遠い場所にある。大学を選ぶ際には父親も浩輔も近くに住む祖父母も反対した。田畑を沢山抱えている波田野家の長男が抜けるとなると農家的には大打撃だ。地元で農家に就職してくれると期待していたのにいきなり遠くの大学に行くと言い出し、父親は説得しようと試みた。だが将来生花店を開くのが夢だという崇の希望を聴くと、母親が亡くなってから多感な時期を犠牲にして人一倍頑張ってくれた彼の人生を、このまま家族のために左右するのはあまりに酷だと承諾した。
大学一年と二年の長期休暇は地元に帰ってきて繁忙期の農作業を手伝ってくれていた崇だったが二年の冬休みから帰って来ず家族で心配した。大学で色々あってと理由は話さなかったが三年になった今回の夏休みは戻れると聞いて父親もほっとしている。大抵繁忙作業の一週間ほど滞在して鱈腹手伝いをして帰るので浩輔は崇の休みが本来どれだけあるのかは知らない。
「兄ちゃん、大学でなんぞあったんか」
「浩輔は気にせんでええ事じゃけ」
そう言って目尻を下げて無理やり笑顔を作る兄の笑顔は物悲しく見える。
母親が亡くなってから悲しいことが起きる度に浩輔は兄を頼ってきた。兄はうんうんと自分のやりたいことを二の次にして話を聴いて浩輔を慰めた。父親は農作業に追われる毎日。崇は学業も片手間に母親の分まで頑張って父親を手伝った。甘えたい盛りの浩輔だったがひた向きに頑張る二人の背中を見て自分も泣いてばかりいないで家族の一員としてしっかりしなければと文句言わず手伝うようになった。だからこそ崇が遠い大学へ行くと言い始めた時はショックだった。でも父親の言う通り青春を潰してつらい時期を乗り越えてくれた彼の夢を奪うのは忍びない事だった。今となっては兄と同じ境遇になりつつあるわけだが自分にはまだ夢というものがない。だから兄には夢を実現させて楽しく生きてほしいと思っている。
生花店を営みたいという崇の将来のために家族で相談して小さいがビニールハウスを建てて実験的に花の生育を始めた。どうせなら実家から安く生花を仕入れて売る方がいい。初めて帰ってきてハウスを見た時には大喜びしてありがとうと涙ぐんでいた。長期休暇になるたびに時間を惜しまず嬉しそうに世話をしていたのに、昨年の冬からは花がどうなっているかさえ訊きもしなかった。大学で何かあったようだが話したくないなら仕方ない。優しかった兄が苦しい思いをしているならば力になりたい。でも中学生の自分に話したからと言って助けになるかなんて分からない。だから踏み込めなかった。
「兄ちゃん、勉強も頑張っとる?」
着替え終わった浩輔は長靴を履きながら言った。
「うん、頑張っとるよ。ありがとう、浩輔」
兄からありがとうと言われると嬉しい。でもありがとうには、ごめんも含まれていると思った。世話を任せっぱなしでごめん。帰らなくてごめん。崇は内側にいつも何か言いたいことを隠していてきっかけがないとなかなか話そうとはしない。秘密主義だ。性分だから仕方がないが弟としては心配だ。いつまで経っても悩みを相談してもらえない自分はまだまだ子供なんだと項垂れるばかりだった。
「父ちゃんは寄合あるから遅くなるって」
「そう」
「父ちゃんの足、どう?」
「慣れたみたいやけど、やっぱり不便じゃて言いよる」
「だな」
父親は農作業中農機に足を引っかけて骨を折ってしまいギプスをしている。片足だけだが足を引きずりながらの作業は不便だ。稲刈りの時期に帰ってきてくれて本当に良かったと浩輔は思う。コンバインの運転は足を使わないが乗ったり下りたり収穫袋を変えたりと作業は思った以上に体を使う。
「兄ちゃん」
「ん?」
「帰って来てくれて、ありがとう」
照れくさいからずっと言えなかった言葉を言うとやっぱり照れくさかった。顔が真っ赤になる。
「俺こそ、ありがとう」
「明日は西側頼む」
「任しとけ」
そういって笑った崇の顔は泣いたように見えて、浩輔はまた心配になるのだった。
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