次の夜も穂高は田んぼに出向いた。また話したい。単純にそう思った。だが男の姿はそこにはなかった。代わりに予想通り木の案山子が立っていた。難しい原子の話をしたり冗談を言ったり、人間としか思えないのに返したスカーフが案山子のズボンのポケットに入っていた。


「今日は木のままですか、案山子さん」


 話しかけてみても返事は返って来ない。周囲を見回したが誰も来る気配はなかった。穂高は重そうに項垂れる稲をかき分けて案山子に近づいた。


「案山子さん……」


 シャツの左裾は昨日の男のシャツ同様伸びていてあの香りがした。どこかでかすかに匂った事があるがやはり思い出せなかった。


「やっぱり案山子さんなんだよな」


 あり得ないと思うのに穂高の心臓は煩く鳴った。目の前で案山子から人間に変貌するかもしれない。暫く見ていたが結局何も起こらず、何度も振り返りながらその夜は帰った。





 金曜日最後の授業前、休み時間に波田野がこっそり持ってきていた漫画を貸してくれた。穂高は我慢できず案山子の話を持ち出した。始めは物の怪か神様かそんな類じゃないかと疑ったが、人のようでもある。相談に乗ってもらったら原子の話をし出して、でも次の日は返したスカーフが案山子のポケットに入っていて、わざわざ見ず知らずの穂高をだますために人間がすることじゃないからやっぱり神様だろうかと。すると波田野はその可能性はあるかもと真剣な顔で言った。


「俺の祖父ちゃんが座敷童が出たって言ってた事ある」


「ほんとに?!」


「うん、昔の話だけど。で、なんか願い事叶えたらいなくなったらしい」 


「そうなの。じゃあ願い事叶ったら逢えなくなるのかな」


「願い事叶えてもらった方がよくね?」


「それはそうなんだけど」


 逢えなくなると寂しいとは言えなかった。

 一歩を踏み出せと助言してくれた優しい案山子。願いが叶って逢えなくなるのは悲しい。このまま案山子と秘密の時間を共有するのも悪くないと思っていた。以前のようにみんなと話したいと思う反面、案山子と過ごした時間は僅かなのに強く惹かれる何かがある。自分の事を偽らずに話せる相手だからなのか、案山子が本当は神様だからなのか、その両方なのか不確かだけれど。


 他のクラスメイトたちは、二人が話しているのを見て穂高に声を掛けようとしたがチャイムが鳴り断念した。波田野はほっとした様子の穂高を見た。穂高は話しかけられそうな雰囲気を感じ取ると心の準備ができていないのかすぐに壁を作ってしまう。皆と話したいのに実際には話すのが怖くてたまらない。結局漫画の交換をしあう波田野以外とはまともに話せない状況が続いていた。




「来たか」


 その夜、男は待っていた。案の定木でできた案山子は見当たらない。


「案山子さん、来てくれたんですね!」


「おー」


 そっけなく返事した男は笑っていなかった。前回とは違って少し苛立った様に感じるが暗がりではっきりとは判断できない。穂高は隣に座るのを少し躊躇ったが、男がポンポンとベンチを叩くので腰を下ろした。


「どう、みんなとは話せた?」


 組んだ足の上に肘をついて顎を支えながら男は訊いた。


「いえ、まだ……」


 何か悪いことをしているような気分になるのはなぜだろう。穂高は俯いた。悪い癖だった。自分のしなくてはならないことを先延ばしにしてどうにかしてやり過ごそうとしてしまう。男はそれを知っているかのように思えた。


 案山子の神様は久延毘古神くえびこのかみという博識の神様でなんでも知っているという。皆と話せずにいるのは勇気がないだけが理由じゃないと見透かされているのかもしれない。


「明日、明日、話します」

 

 なんだか怖くなって穂高は咄嗟に宣言した。


「明日じゃなくても、自分の心の準備ができたらでいいけど」 


「はい」


「大丈夫?」


「多分」


 男は穂高の顔を覗いた。穂高もまつ毛が長いとよく言われるが、案山子の方がよっぽどまつ毛がくるりんとして綺麗だと思った。顔周りの生え際の後れ毛を耳にかける仕草に心臓が波打って穂高は胸元のシャツをぎゅっと握った。案山子が足を組み替えて動くと流れてくる匂いが穂高の嗅覚に何かを訴える。


「あの、案山子さん……」


「なに」


「あの、その香りって……」


「香り?」


「香水?」


 一瞬何のことか分からなかったようだがすぐに案山子はシャツの襟ぐりを引っ張りすんすんと鼻を鳴らした。引っ張ったところから筋肉質な体がうっすら見て取れる。神様だからこんなに綺麗なのだろうか。


「やな匂い?」


「え、いや……いい匂いがする」


「いい匂いか……」


「うん」


 そういって今度は袖を嗅ぎ、そうだなと言って遠くを見た。


 案山子はずっとここに立っているのにこんな風にいい香りがするのは変だ。匂いが付くなら稲穂の匂いだろう。やっぱり人間なんだなと残念に思う自分がいた。もう一度嗅いでみようと近づくと男は体を遠ざけた。


「ごめんなさい」


「いや、別に……」


 そう言いながらも男が困っている素振りをするので穂高は控えた。


「案山子さん。案山子さんはずっとここにいるんですか?」

 

 予想していなかった質問に男は狼狽える。顎を何度か擦って応えた。


「俺? いや、ここには少しの間しかいない」


「えっ……いつまで?」


「稲刈りが終わるまで」


「稲刈り?」


 稲刈りはもうすぐだ。


「そう。案山子の役目はそれで終わり」


 本当に案山子なのか。穂高はまた一人になるような気がして空寒くなった。案山子がいなくなったら、また刺激のない毎日に戻る。いや、そうじゃない。クラスメイトたちと早く打ち解けないと。案山子はその相談に載ってくれているのに。でもこのまま案山子と逢えなくなるのは単純に嫌だ。


「案山子さん、いなくならないで」


「え……」


「僕、案山子さんと友達になりたいです」


「あのな、俺、案山子だから」


「案山子の神様ってことですか?」


「……ま、まぁ」


「僕が自分の悩みを自力で解決したら、代わりに僕の願い事叶えてくれますか」


 孤独な夜を癒してくれた案山子。正体が人間でも案山子でもどちらでもいい。彼の存在が少しずつ特別なものに変わっているのを感じていた。それをどう表現したらいいのか今の穂高には分からないけれど、普段自己主張をしない穂高がこんな我儘を言う事は珍しかった。


 案山子はうーんとまた顎を摩る。

 

「穂高のお願いごとって」


「案山子さんにまた会いたいです」


 案山子は頭を掻いた。困っているように見える。


「あのな、穂高」


「はい」


 穂高は背の高い案山子の顔を見上げた。穂高のくりくりとした大きな目は月あかりを良く映し、光を全部吸い込んで星のように輝いていた。


「ごほんっ」


 咳払いして案山子は立つ。


「病気であることは悪い事じゃない。恥ずかしい事じゃない。自分をちゃんと大事にしてやれ。穂高はきっと大丈夫だから」


「願い事が叶っても案山子さんに逢えますか」


「それは、分からんけど」


 穂高は口を噤んだ。


「俺はずっとここにはおらん。稲刈りが終われば案山子の役目は終わる。穂高はちゃんと自分に向き合わんと。いいな」


「案山子さん……」


「ちゃんと自分でどうするか決めて、青春を謳歌しろ」


 青春を謳歌しろだなんて今どき先生でも言わないよ。そう言って笑いあいたかったのに案山子はそのまま山の中へと足を進めて振り返らなかった。


「案山子さん……」


 穂高の声に振り返ることなく、案山子は消えた。穂高はなんだか見捨てられたような複雑な気持ちになった。






 週明け、案山子との約束を守るべく穂高は放課後みんなに時間を作ってもらい、声を震わせながら今までの経緯と病状の事を打ち明けた。


 ほとんどのクラスメイトはデリケートな話だから自分たちから訊いたりするのはいけないことだと思っていた、話してくれるのを待っていたと言ってくれた。一緒に遊んでいた男の子グループの子たちはみずくさいだろうと怒っていたが、自分の病気の事を話すのが怖い気持ちも分かると理解を示し、誘わなくなっていたことも謝ってくれた。


 悩んでいた時間は一体何だったのだろうと自分でも馬鹿らしく思えるほど何事もなかったようにみんなとの関係は元に戻った。むしろ以前よりも近くて、思いやりがあって穏やかに過ぎている。相変わらず激しい運動は控えているがみんなに嘘をつく必要もなくなって後ろめたさもなくなり、穂高の体調は以前に比べても随分良くなった。波田野に案山子の話の続きをこっそりしてみたが、神様の話は他人にしちゃいけないとじいちゃんが言っていたというのでそれ以上話題にはしなかった。


 案山子に礼を言おうと夜の田んぼに行ったが、一帯の稲刈りが終わった後で男の姿はどこにも見当たらず、代わりにあの案山子が横たわっていた。切れ切れの藁があちこちに纏わりついていたので顔に付いている藁をいくつかそっと取り、毛糸で出来た髪を撫でた。あの男が案山子だったなら、案山子は死んだ事になるのだろうか。


「友達になれると思ってたのに」


 穂高はその後何度も夜に倒れた案山子を見に行ったが案山子の代わりに男がいる事はなく、しばらくするとその案山子さえ撤去されいなくなっていた。


 案山子の語源はがしと言われている。獣たちが嫌がる臭いを付けて立てていたからが濁ってとなったと。昔は臭いものだったかもしれないが、穂高の出会った案山子はいい匂いがした。時代が変われば神様も変わるのかもしれない。案山子の神様は知恵の神様とも言われている。なんでも知っている神様だからきっと自分を不憫に思って救ってくれたのだと、穂高はそう思う事にした。


 神様なのか人なのか、結局穂高には分からないままだったが、案山子が立つ季節になると穂高は白シャツにジーンズを履いた案山子をどこともなく歩いて探した。季節が変わっても男が現れる事はなく、あの案山子に出会う事もなく時は過ぎ、喘息もすっかり良くなった二度目の春、穂高は別の県の高校に進学した。


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