先輩の家

「お邪魔します」

「どうぞー、散らかってますけど」


 先輩の家は、すれ違ったりする時にほのかに香る先輩の匂いを濃くしたような空気が満ちていて、玄関を入った瞬間に僕はくらくらした。


「あ、ちょっと待って。洗面所周りだけ少し片付ける」

「はい。すみません、急にお邪魔してしまって」


 あれから僕らはコンビニに寄って、缶チューハイやスナック菓子、スポーツドリンクや菓子パンなどを買い込んで、先輩の住むアパートに来ていた。

 弾ける衝動に任せて咄嗟に先輩の後を追い掛けてしまったが、正直全くノープランだった。

 ただ、あの時はこうしなければ一生後悔するという確信があった。

 だが、いざこういう状況になってみると少しだけ後悔している面もあった。

 何を話せばいい……?

 それに、言われるままに付いて来てしまったが、大丈夫なんだろうか。


 ヒゾウの子ら。


 あれから、僕なりに調べてみたが、先輩が言い残した「ヒゾウの子ら」という宗教については何も判らなかった。webは勿論、図書館で宗教関係の本を読み漁り、大学で現代宗教学を履修して教諭に訊いてみたりもした。だが、その実態も、教理も、頂く神も、何も手掛かりを得られなかったのだ。「ヒゾウ」がどんな字を書くのかすら、僕は突き止められなかった。

 先輩はあの時「マイナーな宗教」と言った。

 それが本当なのか。

 それともやはりそんな宗教は無くて、舞い上がった後輩を体良く振る為の方便だったのか。

 或いは、何かの事情で本当に秘密に隠され続けて来た……影の宗教なのか。

 例えばだ。

 これも何かの罠で、僕はこれから薬か何かで眠らされて、古き者共の生贄に……。


「お待たせ」


 先輩の掛けた声に、僕はビクッとしてしまった。


「どうしたの?」

「あ、いえ。改めてお邪魔します」

「タオル、新しいから使ってね。なんなら洗顔料も使っていいから」


 言いながら先輩はマスクを外した。

 あ……なんだろう。

 なんというか……色っぽい……マスクを外しただけだってのに。


 先輩は手を洗って控え目にうがいをした。


「どうぞー」

「あ、ありがとうございます」


 僕も手を洗う。うがいは上に向けた口を手で覆いながらした。洗顔料を小指の先ほど借りて顔を洗う。タオルを一枚借りて、拭いた後のタオルは軽く畳んで洗濯カゴに入れた。じろじろ観察するつもりはなかったが、歯ブラシスタンドに立つ歯ブラシは一本だけだった。


***


 こざっぱりした部屋だった。


 シンプルな白い壁紙。部屋の中央にこたつを兼ねるだろうテーブル。シングルのベッドは水色の布団が綺麗にベッドメイクされている。テレビ。衣装ケース。飾り棚兼用の本棚。さらっと見たが福祉に関する本や心理学の本が多いように見えた。トロールの人形とペンギンの置物。アラームクロック。天井と床に突っ張るタイプのフェンスのパーテーションが壁際にセットされていて、帽子や小物、バッグなどが掛けられている。邪教のシンボルや宗教指導者の肖像画とかはパッと見は見当たらない。隠してあるだけかも知れないが。


「先に飲んじゃってて。私も顔だけ洗って来ちゃう」

「待ってますよ。乾杯しましょう」

「そう? じゃ、重ね重ねだけどちょっと待ってて」


 先輩はそう言うとまた洗面所へ行った。

 今のところ宗教の匂いは全くしない。

 女の人の……先輩のいい匂いだけだ。

 僕がおかしいのか? 宗教に対して想像を拗らせ過ぎなのか?

 ぐるぐるぐるぐる。そう。この五年の間、頭のどこかで廻り続けていた疑問の螺旋。今日、抜け出せる筈なんだ。答えが、すぐそこにあるんだ。


 僕はテーブルの上をティッシュで軽く拭いて、買ってきた飲み物やおつまみを配置しながら先輩を待った。


「お待たせ」


 先輩はタオル地のヘアバンドで髪を纏めて、すっぴんで戻って来た。その顔は、僕の知っている、高校の頃の先輩そのもので、僕はなるべく音を出さないように、ごくり、と唾を飲み込んだ。


「髪、伸びましたね」

「まあね。最後に会ってから、五年かー。短いようで長いね。……乾杯しよっか」

「渡辺の結婚に」

「私たちの再会に」


 かいん、と缶の縁を合わせて、僕はレモンの缶チューハイを一息に飲み干した。


「おお、いい飲みっぷり」

「僕は……ずっと先輩に訊きたいことがあったんです」


 先輩の表情から一瞬、す、と感情が消えた。しかし、ここでやめる訳にはいかなかった。


「ヒゾウの子ら」

「……でしょうね」


 先輩は吐きかけた息を堪えたように見えた。

 そしてまたいつもの先輩の表情に戻って、ふわ、と微笑んだ。


「小野くんの真剣な気持ちに応えるつもりであの時本当のことを言ったけど、それが返ってあなたを苦しめちゃったかも知れないね」


 先輩は、ごめんね、と小さく謝った。


 やっぱり、嘘ではないのか。


「無宗教とか、素朴な仏教神道を習慣的に受け入れてる暮らしてる人には、宗教や信仰というのはひどく特殊な……異常なものと思えるかもしれない。今でも戦争の原因として語られるし、酷い事件を起こした団体もある。どうしてもそういうネガティブな面は印象に残ってしまうしね」


「それは理解しているつもりです」


 僕は、スポーツドリンクのキャップを開けた。


「我が国の土着信仰もそうですが、西欧や中東では現在でも宗教は大切な精神的基盤、倫理観の基礎として、コミュニティの安定や人々の生き方の道筋として大きな役割を果たしていますし、最近の文化人類学の研究では原始宗教の登場が社会の形成を促したのではなく、宗教は、原始社会の成熟に伴い、それが大型化するにしたがって発生し、拡散したことが分かっている」

「つまり?」


 話しながら僕は喋り過ぎたかと思っていたが、意外にも先輩は楽しそうに乗って来た。


「宗教は、人間社会の要請に応じて生まれた一種の装置……例えばコンピュータで言えばバッファ領域のようなもの、ということです」

「すごいな。ちゃんと勉強してるねえ。しかもそれが身に付いてる。賢い後輩だとは思ってたけど、努力もするんだからどんどん賢くなるよね」


 先輩も自分の缶チューハイを開けて、一口飲んだ。


「そういう人、素敵だと思う」

「過ぎた評価です」


 本心だった。


「それに今のは一般論で、僕の知りたい話じゃありません」


 勢いがついて、強い言葉が出た。


「僕は宗教史の講義が受けたいわけじゃない」

「成る程ね」


 先輩が笑みを作ったが、それは僕が初めて見る先輩の表情だった。

 なんというかこう、手強い獲物を目の前にした狩人の笑み、みたいな。


「知識も見解ももってる。誤魔化されもしない。あの頃の小野くんとは違うってわけね」


 先輩はチューハイをあおって空けた。

 座る位置を少しずらして、ベッドの縁を背もたれに寄りかかる。そして自分の隣の床をぽん、ぽん、と叩いた。


「こっちに来て。ここから先は大きな声では話せない」


 罠だ、と頭の中の誰かが静止する。

 先輩が、ヘアバンドを外した。


「ちゃんと話す。ヒゾウの子らとは、なんなのか」


 僕は立ち上がった。

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