二次会の後

 告白未遂から五年を経て、僕はまた先輩と線路の脇を歩いていた。


 二次会の後に着替えたから、僕も先輩も秋色のカジュアルに装いを改めていて、フォーマルウェアは荷物として携えていた。


 あの時より空気は涼やかで、酔って火照った顔に気持ちいい。


 他のメンバーは外回りで品川へ。

 僕と先輩は内回りで先輩の最寄り駅まで来ていた。

 終電までにはまだゆとりがあり、僕が近くまで送りますと引き受けたのだ。はいサヨナラと適当に別れた後もしも先輩に何かあったら、僕は死んでも死に切れないだろう。先輩も僕の提案を受け入れた。

 22時を回っているのに電車は割かし混み合っていて、先輩と僕とは近くに立ってはいたのだけれど、何かを話すというような空気ではなかった。


「あ、次の駅」

「はい」


 それだけが、車内の僕と先輩の会話の全てだった。


 電車が止まる。聞き取りにくい停車駅のアナウンスが僕の耳を異星言語の感触で撫でて滑り落ちてゆく。顔のない人々を吐き出す自動ドア。駅に吐き出されるその他大勢はホームに降り立った瞬間誰かの父、誰かの母、誰かの子供の属性を取り戻し、顔と名前を返却されてそれぞれの家路へ向かう。あるものはせかせかと足早に。あるものは、のっそり、のっそり、と疲れ切った足取りで。

 硬いLEDの光に合成画像のように照らし出される週末深夜の人波の中。僕と先輩だけが違う時間を歩いていた。


 そう。あの夜のあの時の続きを。


 改札を抜けて、階段を降りる。学習塾の看板。タクシーとその傍らで何かを笑い合う運転手たち。自販機。自転車置き場。誰が入るのだろうかというボロい居酒屋を過ぎると、線路沿いの長く暗い道。ぽつんぽつんと一定距離に灯る光の円錐が、逆に暗い場所の闇を際立たせて真っ黒に塗りつぶす。


「思ったより混んでましたね」

「そう? 土曜のこの時間ならこんなものよ」

「さすがは東京。この時間、埼玉だったら車内で傘差して踊れるくらい空いてますよ」

「なにそれ」


 くすくすくすくすと先輩が笑う。

 それはちょっと長く続いた。僕も釣られて笑った。僕らは酔っていたのだ。特に僕は、いつもより強いお酒を多めに飲んでいた。


 右手に流れて行く所々に錆の浮いたフェンス。

 近づいて来るその切れ目。死んだように沈黙する踏み切り。今夜もあの晩と同じだ。雨こそ降り出してはいないが、夜空は雲に覆われて月明かりはない。


「じゃあ、ここで」

 先輩は立ち止まる。

 切れたフェンス。死んだように沈黙する踏み切り。今夜の踏み切りは、地元のものより大きく、昨日作ったかのように真新しい。

「もう大丈夫。ここ渡ったらすぐなの。ありがとう小野くん。今日は、会えて嬉しかった」

「こちらこそ。何かあったら気軽に連絡ください。営業の電話でも。仕事の愚痴でも」

 先輩は笑った。

 そして手をひらひら、と振るとくるりと背を向けて歩き出す。

 僕も先輩が振ったように、先輩と同じだけひらひら、と手を振り返す。


 カン!カン!カン!カン!カン!……


 突然の甲高い鐘の音と眩しいほどに明滅する真っ赤なランプ。

 右手の車線のグラスファイバーの遮断機が、制御された動きで滑るように下がって来る。


 カン!カン!カン!カン!カン!……


 カン!カン!カン!カン!カン!……


「ああ……もうっ!」


 ふっ、と息を一つ吐いて、僕は駆け出した。


 下がり来る遮断機のバーをくぐる。

 加速。全力。猛ダッシュ。

 足よ。走れ。連れて行ってくれ。


 


「先輩っ‼︎」


 遮断機が完全に降りる。僕の背中のすぐ後ろで。驚いて振り向く先輩の顔を過ぎゆく電車から漏れる光がフィルム映画のように照らした。


「先輩……霧島先輩……もしも、もし良ければ……なんですけど……」


 突然の短距離走がもたらした息の乱れに巻き込んで、汗に湿ったマスクそのものを吸い込みそうになった僕は咳こんだ。


 僕は手で少しだけマスクを浮かせて呼吸を確保しようとしたが、そのマスクをビッと剥ぎ取る白くたおやかな指があった。


「……飲みなおそっか。私の家で」


 剥ぎ取った僕のマスクの紐を指先に引っ掛けて、くるんくるんと回しながら先輩はそう言った。

 彼女は一歩近づいて僕の眼を見つめ、少し首を傾げるようにして続けた。


「ね?」

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