第2話 メイドさん
当時魔族――まぁ悪魔とも言って差し支えない存在に転生した俺は、てっきり鏡に自分の身体は映らないと思っていた。
悪魔に分類されるであろう
ベッドから起き上がり、寝間着姿の俺が部屋の中にある姿鏡の前に立てば、何事もなく自身の身体がその鏡に映し出されるのだった。
この身は人の恐怖の象徴である魔族そのものだが、強大な力の代わりに様々な縛りが設けられる――なんて事はなく、実際の所は人間の上位互換のようなものだ。
彼等が人間を見下す理由も何となく判る。俺も人として生きた前世の記憶がなければ、劣等種だと人々を嘲笑っていただろうから。
それにしても、この身体。こう言うのもなんだが、前世の自分とは比べ物にならない程に整い過ぎていた。
流石に自分の姉であるあの黒髪程の艶やかさはないが、梳けばさらさらと指の間から零れ落ちる髪の質に、魔族特有の血液を凝縮させたような真紅の瞳。
顔立ちも、俺は男であるのでこう形容するのは些か抵抗はあるが、美麗な。おそらく母親譲りの女々しいもので、この女性優位のあべこべ世界の場合、こう言った顔立ちは『可愛い』ではなく『格好いい』になるのだろうか。
滅多に外に出ない、と言うよりは出させて貰えない箱入り娘――息子? のようなものなので、いまいちこの世界における美醜感覚が判り辛い。周囲の人間は格好いいだの可愛いだのとしか口にしないから、尚更。
鏡の前で自分の顔とにらめっこしていると、控えめに部屋の扉が叩かれた。入室を許可すると、静かに扉が開かれてメイドが一礼と共にやって来る。
「ヘレティック様。起きていらっしゃいましたか」
「ん、昨日寝るの早かったから……」
目を擦る振りをしつつ、この屋敷のメイド長を務めている彼女――アメリアの方に視線を移動させた。
彼女も姉と同じく、表情があまり変わらない。が、姉はあのような目付きと威圧的な口調のせいで常時不機嫌そうな印象を抱きがちだけど、アメリアは自身の感情を気取らせないような無表情で、何時も大体澄んだような瞳をしている。
そんな彼女だからこそメイド服が似合うというか、実を言うと俺の好みは瀟洒な品の良い侍女で。
別にお盆をひっくり返すようなドジっ子メイドも好きだけど、やはりメイドと言えばスカートの丈も長く露出も少ない、クラシックモデルのエプロンドレスが一番だろう。異論は認めるが。
更にそこに白銀のショートヘアと、彼女の種族が
「ではヘレティック様。御身体を清めるので服を脱いでください」
「嫌だ。洗うにしても自分でするし、今は顔を洗うだけでいい」
虚空から取り出した桶と水に濡れた布を手にするアメリアに、拒否の意を示す。
外見ばかりは好みの人物なのだけど、時折こうして真紅の瞳に僅かな情欲の感情を宿し迫り来るのは勘弁である。
尤も個人的には、彼女との一夜限りの逢瀬と言うのに憧れはあるが、男卑女尊と言えばいいのか。
あべこべ世界特有の逆転した貞操観念のせいで女性にあって然るべき慎ましさが消え、下心ありありに迫られると何だかその気も失せてしまう。
少し残念そうな雰囲気を漂わせるアメリアに悪いと思いつつ、桶に入ったお湯で顔を洗えば目も覚めて来る。
爽やかな朝と言うのは大事なものだ。今日もどうせ屋敷の敷地内から出られる事はないだろうが、何か良い事がありそうだと伸びをした矢先、閉められた扉が遠慮もなく大きな音と共に開かれた。
「お兄様、おはよう――って、あら。アメリアも居るのね。先を越されたかしら」
「おはよう御座います、レイチェル様。良い朝ですね」
俺の方は今し方いい朝ではなくなったのだが。まぁ視界の端で紅茶を淹れてくれるアメリアとその茶葉の香りに免じ、遠慮もなく部屋に入って来た事は不問としよう。
アメリアがこの屋敷で働き始めたのは凡そ三百年前で、長年ここに勤めているだけあり姉や妹からの信頼も高い。
故に他者に対し排他的な態度を取る事の多いレイチェルも彼女には懐いているし、姉も彼女をメイド長に任命する程には信を置いている。
差し出された紅茶を静かに飲みながら、和気藹々と談笑するアメリアと自分の妹とを眺め癒される。ただでさえ家内の雰囲気が悪いのだから、こう言った一時をこそ楽しむべきだろう。
「そうだ。アメリア、お兄様と私はここで朝ごはんにするから、ここに持って来てくれる?」
「……レイチェル。ご飯を食べる時は食卓で、と決めたろう」
「良いじゃない。どうせアイツは自分の仕事が忙しくて来れないだろうし」
「それでもだ。あと、アイツじゃなくてちゃんと名前で――」
説教臭くなってしまった自分の口を閉ざし、目の前を見据えるとそこには拗ねたような表情でこちらを見据えるレイチェルの姿があって、後悔してももう遅い。
この場を取り繕える言葉を探るよりも先に、レイチェルが踵を返した。その後ろ姿が何処となく寂しそうに見えるのは、勘違いではない筈だ。
「ふぅん。お兄様はアイツの肩を持つのね。なら、もう良いわ」
妹の名前を呼ぶも返事はなく、彼女はこの部屋から出て行った。
思わず深い溜め息を零して、ベッドの上に寝転がってしまう。ままならないものだ。家内の雰囲気をどうにかしようと考えてはいるが、どうにも上手くいかない。
寝転がりながら相も変わらず表情の変わらないアメリアを見詰めるが、良く窺うと彼女も現状を案じているようで、何も思っていない訳ではなさそうだった。
「アメリア。妹とお姉様の仲を修繕するには、どうしたらいいかな」
「……申し訳御座いません、ヘレティック様。私からは何とも――時間がどうにかする、とも言えませんし」
「それ程までに二人の仲は深刻そう?」
少し逡巡した後に、素直に首肯する彼女を見て又しても溜め息を零してしまう。アメリアが居ると言うのに、胸中の憂いを隠せずに居た。
何はともあれ、そろそろ朝食の時間だ。おそらくこの感じだとレイチェルは来ないだろうし、姉の方も多忙の身だ。来れるかどうか判らないから、最悪の場合俺一人で食べる事になるのか。
アメリアを下がらせてから寝間着を脱いで、普段着を身に纏う。
何時もならこの後少しゆったりとした時間を過ごしてから食卓の間に転移するのだけど、今は憂さ晴らしも兼ねて歩いて向かいたい気分だった。
部屋を出て長い通路の中を進む。
廊下に敷かれた、赤いカーペットを踏むこの感触が好きだ。前世で畳やフローリングと言った床ばかりを踏んでいたせいだろう。幾ら何百年とこの屋敷の廊下を歩き続けたとは言え、今でも何故か目を閉じると前世の、狭いアパートの情景を思い出す。
壁に飾られた絵画の色。天井から吊り下げられた照明器具。朝日の差し込むステンドグラスに、ふと鼻先をくすぐる古い本の匂い。見慣れた光景だが、新鮮なものだ。
朝の静けさを纏う屋敷の中を進みながら、曲がりくねった螺旋階段を下り一階に行くと、見覚えのある顔が目に入った。
「おはよう、キャロルにイザベラ。来てたんだ」
「――ああ、これはこれは弟様。お元気そうで何よりです」
「ん……おお、ヘレティック。早いじゃねぇか、起きてたのか!」
青いストレートの髪を靡かせる理知的な女性と、見る者に活発な印象を抱かせる赤色の髪を後ろに一纏めにした、外見も性格も対照的な二人に声を掛けた。
前者の方がキャロルと言う名を持ち、後者の方がイザベラと言う名前である。
彼女達は魔王に仕える側近のような存在で、巷では親衛隊だの守護者だのと言われているが、俺は彼女らの数が丁度四人だと言うのもあり、秘かに四天王と呼んでいた。その方が覚えられやすいし。
二人のLvは確か、魔王の側近を務めるだけあって俺よりも高かった筈だ。中でもキャロルは俺がまだ幼い頃から魔王――この場合俺達の母親の事になるのか――に仕えていて、実年齢は噂によると八百年を超えるとか何とか。
尤も、それでもレイチェルに届くか届かないかくらいのLvなので、そう考えると俺の姉妹は魔族から見ても天才的な程に成長速度が著しいのかもしれない。
因みに、Lvの上げ易さ上げ辛さは一律ではなく、人それぞれだ。何も長寿であれば必ずこの世の頂点を取れる訳ではない。勇者の存在がその何よりもの証拠だろう。
二人に会うのは数カ月振りだ。そもそもこの屋敷はスペクター家の者が暮らす為の実家で、魔王城よろしく深奥の方で勇者が来るのを待ち構えている訳ではない。
故に、今の魔王は姉なので、言わば仕事仲間のような彼女達が屋敷を訪れる事は珍しい。
何の用なのか、二人が抱える大きな箱に関連があるのかどうなのかは不明だが、忙しいようだし時間を取らせるのも悪いと、労いの言葉と共にこの場を立ち去ろうとした瞬間、キャロルの方がずいと俺の方に顔を近付けて来た。
片手で箱を器用に持ち上げながら掛けている眼鏡をくいっとインテリに持ち上げ、一言。
「……弟様。悩み事があるようですね」
「何だ。悩み? お前を困らせてる奴が居るのか――。何処のどいつだ、私が燃やしてやる!」
氷のように涼し気な表情を浮かべる彼女の隣で、イザベラが周囲に熱を放ちながら憤っていた。
イザベラの種族は
レイチェルとレーヌ姉に関しての悩みを打ち明けると、その相手が自身にとって燃やせない人物だと判るや否やイザベラの表情は曇った。
次いで解決策を出そうと悩む仕草を見せるのだけど、おそらく最後には判らないと投げ出すのだろう。良くも悪くも子供のように純粋で、短絡的な彼女の事だ。手に取るように判る。
とは言えキャロルの方もこう言った話には疎く、暫くの間考え込んだ後に、何かよからぬ事を思い付いたかのように眼鏡を光らせるのだった。
「弟様、私に良い案があります。姉妹仲が改善される良い方法。それは――色仕掛けです」
「……色仕、掛け?」
「はい。妹様は言わずもがな、魔王様もああ見えてむっつりでして。自分の可愛い弟が肌も露わに迫ればイチコロ待ったなし! ああ、しかし何事にも特訓は付き物。僭越ながらこの私が特訓相手になりますとも。さぁまずは神官の恰好に着替えて貰い弟様の聖水を私に――」
「色仕掛けが、何だって。キャロル」
不意に聞くに堪えない彼女の言葉が止んだかと思えば、今度は自分の背後から地獄の底に鳴り響くのがお似合いなような、姉の声色が飛んで来た。
「私がむっつりだの、聖水が何だの。どうやら楽しそうな話をしているようだが、是非私も混ぜてくれないか」
「あ――いや、これは……そのですね」
外見こそ十代半ばくらいの姉に、女教師のような風貌のキャロルが蛇に睨まれた蛙のように委縮しきっているのは、何処か歪な光景である。
実際レーヌ姉よりもずっと年上だろうに、そこに威厳と言うものは見当たらない。
胸中で彼女に向け十字を切る一方、自業自得だと冷や汗を流すキャロルを眺めていると、突如として爆発したような大声と共に箱の中身がひっくり返され、その中身が空中を舞う。
未だ真摯に悩んでくれていたイザベラがオーバーフローを起こし、抱えていた箱を投げ飛ばしたのか。
ひらひらと花びらのように空を漂うそれは何枚もの手紙で、内の一枚を手に取って見ると、表面に『愛しのヘレティック様』との前書きが目に入り、内容を確認するよりも先に姉の手が手紙を奪い取った。
「あの、お姉様。それは――」
「気にするな」
「ですが……」
俺の名前が書かれていた辺り、何だか自分で口にするのは憚れるが、あれはラブレターなるものではないか。
俺自身が表舞台に滅多に上がらないとは言え、魔王には弟と妹が居る、という事実は周知だ。とは言え妹の方はまだしも、俺の実際の素性はあまり広く知られていない。
なのでこう言ったものには無縁なのだと考え込んでいたが、杞憂だったようだ。折角あべこべ世界――前の世界で言う所の、女性の方に値する存在に生まれ変わって、尚且つ顔立ちも整っているのだ。持て囃されたいと言う気持ちもある。
「お姉様、少しで構わないので中身を見せて貰えませんか」
「ダメだ。これは私が処分する」
「いや、何で――」
「お前を婿になど絶対にやらないからだ!!」
やけに感情の籠った姉のそんな言葉が、屋敷全体に轟いた。
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