深海に融解

こましろますく

融解

 死に際は誰よりも儚く、不確かに、それでいて鮮明に飾りたいと、日が暮れる度思っていた。

 痛みはきっと、平常の私には耐え難いものだろうけれど、この世において生を全うしたという事実を自覚できるのであれば、痛苦に苛まれるのも嫌ではない。

 だから私が死ぬときは、何よりも苦しく、そして他とはかえがたいほど美しく、安らぎに包まれたままに死に絶えたいと、心の奥底で決意した。


 海は広大だ。

 昼。煌めく太陽の輝きに目を眩ませ、水面で宝石の如く光る波をうつらうつらと眺める。空と融和し消えてゆく水平線、陽光の蜃気楼。潮風が連れてきた海の香りは酷くしょっぱいものだけれど、心の何処かで昔懐かしく思う感情がある。

 足裏を擽る、海浜の微細な熱砂。波打ち際に寄る白波が緩く優しく足を撫でては、また海へと帰って、また別の波を呼ぶ。肌が焼ける痛みは微々たるものだけれど、胡乱げな熱気は心を焦がし、その鮮やかな情景を深層の意識に焼き付けるのだ。

 夜。星月夜が混色された海水は、緩やかな波と共に不可思議な眠気を誘い出す。水面に揺れる天満月がやけに大きく見えて、息を止めれば吸い込まれてしまいそうだった。

 昼夜の両側面を抱くこの雄大な水の溜まり場は、私の心を嫌なほどに引きつけて離すことが無かった。

 いつからだろうか、帰巣本脳が如き夢現が、私を広大なる溟海へと誘い初めたのは。人生設計も将来の岐路も持たない半端者が、大海に惑わされてしまったのは。

 深夜の闇に沈む砂浜が、月明かりで僅かに薄く儚く白んで見えた。日が照らさずとも目が霞むような美麗な光景は、私には酷く眩しい産物に思えて仕方がない。

 私はゆっくりと、その柔からな心地をふみしめながら足を踏み出した。裸足に触れる砂粒が、冷たくこそばゆい。

 簡素な衣服だった。暮夜に溶け込む深い藍色をした、リネンのワンピース。

 私の覚悟の印でもあった。心情の表し、証だった。これまでも一度や二度、海辺に訪れては融和を希うことはあったのだ。私の心から欠落していたのは、何の変哲もないただの勇気。

 夕凪の頃や、朝露が滴る時頃と共に。一歩。その足先を流麗な水に触れさせては、躊躇って帰宅の途についてしまう。不完全燃焼な心のままに生活をしてはまた何かに絶望し、海洋の流れを眺めては意気地なしな心が挫ける。

 それも今日まで。ようやっと私の、臥した花のような弱い心を手折る悲哀が、さらなる感情が、勇気を人生への絶望で上塗りしたのだから。

 足元から徐々に、海水に浸っていく感覚。昼間とは相対して冷えきった塩水は、心地よい風と共に私の心身を冷まし始める。くるぶし、膝、太股、腰。海原に触れる面積が増えてゆく度に、心の中で矛盾した感情がひしめきあう。喪失感と、充足感の二項対立。

 焦がれ憧れ蕩れていた海洋に混ざりこむ愉悦と、死の間際に立っている事実に対する人間らしい恐怖。生きてきた年数を重ねて、齢が二十を超えてから、死にたいと思う感情は、心境の大部分へと侵食し激しい自己主張を行っていた。

 元々は理由など無かった。単純な、死という概念に対する興味のような、好奇心のようなものだ。車両行き交う今この場で公道へと足を踏み出してみれば、自分はどのような心情を抱くのだろうか。皆が枯れ草のように俯いて、携帯電話に指を這わせる中、私が踊るように線路へ飛び込んでみたらどうなるのか。

 頭の中でシミュレーションをすることで、日々の暇な時間を費やすことも多々ある人生だった。

 もともと、何になりたいかすら決まっていなかった私だ。何者にもなれないで他者に縋り、自身の存在証明を強く求めることがあった人間だ。故に私自身の些細な好奇心は、その感情を希死念慮へと肥大させてしまったのだろう。

 みっともないと指をさされて嘲笑されてしまえば、乗じるように自嘲する他に答えを見出すことはできないだろう。

 自分で納得した後の決断だ。後悔は無い。ただ、欲を言うならば──

 海面の位置は既に、首元までせり上がっていた。僅かな波が立つだけで、口の中に塩の味が広がる。小さな上背の爪先は、やがて波に攫われて砂を踏むことが無くなった。

 その刹那、長い長い融和の始まりが訪れる。

 ざばりと、一際大きな波が立つ。私を覆い隠してしまうような巨影にすら見えた大波は、一息の間に私の体を遠く海中へと誘うのだった。沖に出た実感。身体の平衡感覚が無くなり、泳ぐ力よりも波の力が増した空間では、ただ揉まれるように沈むだけ。

 海水であれば人間の身体は浮かぶはずだ。しかしそれすら無いほどに海底が深まり、息つく間も無く波が襲えば、人間の拙い抵抗は海洋に飲み込まれてあぶく同然の代物と化して終わるだけ。

 塩の味どころではない。海水が一気に喉を下り、腹の中を荒らす。

 思わず嘔吐いて吐き出そうとすれば、大口を開いた反動でさらにさらにと次ぐ勢いで液体が体に飛び込んできた。口の中を満たす生温さ。吐き出そうにも吐き出せず、鼻から目から人体に潜り込もうと策を施す濁り水。

 私の肉体を蹂躙するそれらに藻掻くように、酸素を求めて海面へ戻ろうと暴れれば暴れるほど、私の身体は深く沈み込んでいった。

 全身が浸かる。耳に聞こえていたはずの激しい飛沫の音が、鈍くくぐもった泡の音へと一瞬で変換された。最早口内はおろか体内にすら、おおよそ空気と呼ばれる代物は残っていないような気がする。

 苦しい。ただ、苦しい。吸って吐けば自然と取り込まれるはずの酸素が無い状況、藻掻いても足掻いても地に足はつかず沈みゆく体、体内を流水が満たす圧迫感。

 必死の抵抗も吐き出す残りの空気も、全てはただの泡沫に過ぎない。

 幼少の頃は、人魚姫の童話に強い憧れを抱いていた。人間に憧憬を向けて、海中で生きる上で欠かせない尾びれを捨て、自分が焦がれた世界へ旅立った彼女に。

 私も、海の中で一度暮らしてみたいと思った。綺麗な藍色の尾びれを生やし、幾百の魚群と連れ添って大海原の旅に出たいと思っていた。

 けれども、海中というのはこんなにも痛くて苦しいものであるなど、当時はどうやって想像したものか。

 空に臨んでいたはずの月光は、最早暗幕のような海洋で遮断され、鈍い光も見えなかった。海面に上昇しようと手を伸ばすが、浮かぶ泡すら掴めずに、流動体に煽られて無気力に漂うのみ。

 外界から見ていた流麗で美麗な海中は、上下も左右も時間も不明な程に不気味で、上へと進みたいのに下へ引き込まれる。

 足掻き藻掻く私の惨状は美しいのだろうか。自分ではよくわからない。

 ただ、痛かった。目に滲む塩水が痛かった。体を内部から押し広げる感覚が苦しかった。それだけ。それと同時に、今を生きているという明瞭な実感が胸中には芽生えていたことも確かである。

 徐々に狭窄する視界は、意識消失の前兆だろうか。抵抗する力は、既にこの疲弊した人体には残されていなかった。無気力に、波の動くままに、ゆっくりと。降り立つように私の肉体は、海底へと呼び込まれていくのだった。

 きっとこれから私の思考が途絶えれば、この体は海水を美味い美味いと絶えず吸い込むことだろう。そうしてブクブクに太ってふやけ、顔もわからなくなった私を、誰かが見つけて土へと埋葬してくれるのだろうか。

 誰の目にも止まらず遠海へと投げ出され、海の藻屑か魚の餌になって、微塵のように海中を彷徨うかもしれない。

 私にはもう、何も分からない。ただ、欲を言うならば。

 誰かを愛し、愛されてみたかった。私の存在が必要不可欠となるほどに愛されて、私という個の存在証明をしてもらいたかった。

 肌を刺す寒気が、酷く心地よくなって。

 私は、海と融和する。幾度かの後悔と、希望と、感傷と共に。

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