第20話 迷い家の記憶②

 あの水死した書生は、いつの間にか目の前から消えていて、僕は安堵するように息を吐いた。

 彼の言う通り、千鶴子は小悪魔的な魅力があり、恋多き女性だ。ふられた相手からすれば、悪魔のような存在かも知れないが、だからといって無関係な人間を殺す、悪霊になるようなタイプには思えないのだが、彼女に何か秘密があるのだろうか。



「健、他の部屋を調べるよ」

「うん、それにしても……無数の気配を感じる。一体、何人の人がここに囚われているのかな」

「この邸に飲まれないように意識をしっかり持つんだよ、健」



 霊視していない場所を含めても、至るところで人の気配がするし、この屋敷もまるで生き物の腐った内部のようで、今にも平衡感覚を失いそうになる。

 僕はばぁちゃんと廊下を歩いていると、右の扉が軋む音と共にゆっくり扉が開いた。明らかに怪しい扉の動きだったが、僕はばぁちゃんと共に誘われるようにそこに入る。

 薄暗い部屋から、ザワザワと人の話し声が聞こえ、意を決して足を踏み入れた瞬間、古びた蓄音機から音楽が鳴り響いた。

 先程と同じように、蓄音機から聞こえた歌声と共に薄暗い部屋はアンティークな家具に囲まれた上品なサロンへと変わっていく。

 そこに、二十代後半のスーツ姿に、丸眼鏡の生真面目そうな青年と、千鶴子が対面して緩やかにチークダンスを踊っていた。

 

 僕はオペラなんて聞かないし、なんの知識もない筈なのに頭の中で、曲名が浮かぶ。

 オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」だ。 


『千鶴子さん……私は、君の事を女学生の時代から慕っていたんだ。兄上からも許可を得ている……私の妻になってくれないだろうか』

『あら、またそのお話? 存じておりますわ。恋文も学生時代から何度も頂いておりますものね。あの頃から貴方の、わたくしを見つめる視線にも気付いておりましたわ』


 千鶴子の言葉に、男性は頬を染めていた。

 彼は、先程の女中たちが話していた『兄上のご学友』だった人だろうか。

 雰囲気からして、役人や軍人のような硬い職業のような人に思える。彼女への接し方からしても、恋人同士のように思えるけれど、僕に恋愛がなんたるかはわからない。


『――――君の事を幸せにしたいんだ。もう、あの画家に熱を上げるのはお止しなさい。彼には妻子がいるんだ』 


 その瞬間、千鶴子は彼の胸板を押しのけると鬼の形相で言った。

 男性はよろけながら、彼女の表情が変わったことに驚きを隠せないでいるようだった。


『大きなお世話だわ! 清史郎さんの事を何も知らないくせに。それに……貴方は遠山家の事を何も知らないでしょう?

 いくら兄様のご学友でお役人でも、あの方に認められなければ、遠山一族に入る事は無理よ』


 千鶴子はくすくすと笑いながら、僕達の隣を通り抜けていく。彼女が去った瞬間、蓄音機の音はゆっくりと止まるとそこだけが時間が進んだかのように朽ちていった。

 そして、視界は暗転し目の前にはスポットライトを浴びた先程の青年が首吊りをしていた。



『ああ、あの時……もっと……強く引き止めておけば……。あんなものを見なければ……』

 

 首を吊って唇から垂れた舌の間から、苦しげな声が漏れると僕は息を呑みながら霊に問い掛ける事にした。

 悪霊化している事も考えて、何時でも浄霊出来るようにばぁちゃんは護符を構えている。


「いったい、貴方は何を見たんですか」

『何を……何を見たか………何を見たか……』


 男の眼鏡は割れ、ギョロっとした目で僕を見ながら何度も同じ言葉を繰り返すと、だらんと伸びた腕が僕の肩を掴むと、頭の中に光景が広がった。



✤✤✤


 遠山家の嫡子ちゃくしである千鶴子の兄、達郎とは学生時代からの親友同士で時々邸に食事に誘われていた。

 その頃から美少女である妹の千鶴子には思いを寄せ、恋文を送っていたが随分と袖にされていたようだった。

 そんな彼女も、年齢を重ねていくうちに次第に社交界で恋の駆け引きを事を覚え、彼とも成り行きで一夜を過ごした。


 本気になったのは、気真面目な彼の方で、彼女を自分の妻に迎えたいと願い、ゆくゆくは遠山家の当主になる兄、達郎にも千鶴子を妻に迎えたいと相談していた。

 だが、その頃から千鶴子は邸に出入りしていた、若き画家の浅野清史郎に熱を上げているという話を達郎から聞き、彼女を問い詰めたのが先程の霊視だ。


 そして、彼女に振られて彼はあろうことか、ある晩、親友の邸に忍び込んだ。今の時代では立派なストーカー行為だが、彼は千鶴子の部屋の真下の木影に隠れていた。 

 ここにいれば、彼女の姿を見る事ができると考えていたようだ。

 僕は彼の肩越しに窓を見上げていた。


「健、あっちを見てごらんなさい」 


 いつの間にか霊視に干渉してきたばぁちゃんが指を指すと同時に、僕と彼がそちらを見る。闇夜に映える、白のドレス姿の千鶴子が髪を下ろして歩いていた。

 ばぁちゃんが僕の霊視に干渉できるのは守護霊と言う事もあるだろうが、霊力の強さも関係している。


「こんな夜中にどこに行くのかな?」


 僕の疑問に答えるように、彼は千鶴子を追って歩いていった。月明かりだけを頼りに、彼女の白い背中を追っていた。

 手元に何かを持っているようだが、月明かりではそこまで見る事が出来なかった。

 広い庭を歩いて、鶏小屋までくると千鶴子は騒ぎ立てる一羽の鶏の首を掴み、キラリと光るもので首を切り落とした。


『――――!?』


 驚いた彼は、音を立ててしまった。

 僕も思わず悲鳴を上げそうになり声を飲み込む。

 それに気付いた彼女がゆっくりと振り返った。凍てつくような表情の千鶴子は美しい微笑みを浮かべた。白いドレスは鶏の血にまみれていた。

 

『あら、御機嫌よう。貴方も血がほしいのかしら?』


 悲鳴をあげながら、彼女から逃げた彼の視界が変わる。


 いつの間にか僕は彼になっていて、首に食い込む縄を必死に掻きむしっていた。数人の男たちが僕の首に巻き付いた縄を、ぎりぎりと引っ張っている。

 足は地につかず、バタバタと動かしている。薄れゆく意識の中で、聞き慣れない呪文のような言葉が響いた。

 目の前には艶やかな黒のドレスの千鶴子が微笑んでいた。


『邪魔をするなと言ったでしょう』

『健!!』


 その瞬間、背中を強く何度か叩かれ僕はゲホゲホと咳き込んでうずくまっていた。

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