第6話
――――私が目覚めたのは暗い棺の中だった。
目をいくら動かしても明けることのない常闇の視界。木の腐った匂い。湿って柔らかくなった木の感触。
「ぁっ…………」
長らく声を出していなかったのか、喉が旨く動かない。
手を伸ばし、腐った木の天井を撫でる。木くずが顔に降りかかる。
「あぅ……」
思い出したように、恐怖が湧き上げって来た。暗く狭い所に閉じ込められているという事実。
半ばパニック状態、足で蹴り手で棺を叩く。
埃や木くずが体にかかるのも、皮が破け血が滲み痛むのも気にせず、狂ったように私は蓋を叩き続けた。
――――どれぐらい経ったのだろう。
叩き続けた蓋には、ポッカリと穴が空きそこから土が落ちてくるようになっていた。
荒い息を整え、血で濡れた手で土を掘る。顔に土が掛かって、目に土が入っても構わず。
体勢を変え必死に掘り進める。一刻も早く、地中から抜け出したかった。
「あっああっ……」
指が何も無い空間に出た。ひんやりした空気が、皮が破け敏感になった指に伝わっていく。
穴から這い出て冷えて固まった体を、地面に投げ出す。空は霞がかり東の空から眩い光が昇っていた。明け方だ。
光に目を細め、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。私はこの時、目覚めてから初めて喉の渇きを覚えた。
喉をさすり、辺りを見渡す。
苔むした墓石達が立ち並んでいた。後ろを振り返る。私が入っていた穴にも、墓石があった。
手入れもされず、長年の雨で侵食しコケまみれになった石に刻まれた名は読めなかった。
「ゎ、私は、だ、誰……?」
棺で目覚める前の記憶がない。だが、墓に入っていたのだから…………。
嫌な想像を打ち消す。
そのまま覚束ない足取りで、墓地を歩き出した。
しばらく歩くと、井戸を見つけた。
桶を投げ入れ、水を汲む。それをすくって口に含んだ。
液体が滑り落ち、胃に流れ込む。しかし、喉の渇きは癒えなかった。
もう一度、水を飲む。だが一向に、喉の渇きが癒える気配は無い。
「なん、で?」
桶に汲んだ水は飲み干してしまった。
困惑する中、もう一回水を汲もうとした。
すると。
「誰?」
黒いワンピースを着た女性が、私を見ていた。
手には花が入った籠を持ち、頭にはベールが付いた小さな帽子を被っている。
「あっ、あの……」
私は立ち上がり、何かを言おうとした。けれど、不意に喉の渇きが強くなった。
思わずその場に倒れてしまう。
「大丈夫ですか!?」
女性は駆け寄り、私を見下ろした。助けを求めようと手を伸ばす。
その手を女性が握った瞬間、急に頭の中が真っ白になった。
気が付くと、私は女性の首筋に歯を突き立て血をすすっていた。
口いっぱいに広がる、血液特有の味。鼻を抜けるあの匂い。
「イヤァァァァァーーーーー!」
私は叫び、歯を引き抜いた。
女性は生気の無い目を見開き、口を半開きにして動かなかった。
肌の色は青白く、血が通っていないように見える。
先程まで血をすすっていた首筋には、歯型と八重歯が刺さった跡の小さな2つの傷口があった。
私が殺した。彼女の生き血を吸って。
その事実から逃れる為。私は女性の死体を背に、這うようにして逃げ出した。
それから半年の間。私は『エリーザ·ベートリバー』と名乗り、ヨーロッパの各地を転々としていた。
本物のエリーザの事は事件となり、ヨーロッパ全土を恐怖に陥れた。
『恐怖! 墓地の血無し死体』と見出しが付いた新聞が出回り、人々は古い文献にある吸血鬼、ヴァンパイアを想像した。
その間も私は、戸惑いながらも限界まで耐えながらも衝動的に人を襲い、吸血行動を繰り返していた。
それもまた事件になり、人々は教会に救いを求め家の戸に十字架を掛けたり、聖水を供えたりした。
だが止まらない凶行に人々は口々に恐怖の言葉と「化け物め」という蔑称を吐いた。
私は、自身が人の生き血を吸い渇きを癒す醜い化け物だと分かると、人様にこれ以上の迷惑を掛けまいと自ら命を絶とうとした。
最初は毒を飲んだ。
激しい頭痛と吐き気に襲われ、のたうち回った。
しかし、死ねなかった。
次は手首を切った。
鋭い痛みと手首から止めなく溢れる鮮血、だが何度切っても数回瞬きする間に、傷が塞がってしまう。
今度は猛スピードで走る馬車の前に飛び込んだ。
骨が折れ、頭が潰され、全身がバラバラになる感覚と共に、意識が黒一色に塗り潰される。
慌てた様子の乗務員が様子を見に来るころには、バラバラになった四肢は再生し元通りになっていた。
高い崖から飛び降りても、重りを足に付け湖に沈んでも、私は死ななかった。
自殺を繰り返し、一年。
殺人を侵した良心の呵責と生き血を啜る罪悪感から自殺を繰り返しても、それに反するかのように身体は人間の生き血を欲した。
老若男女、浮浪者だろうが貴族だろうが関係無く新月の夜に一人ているところを襲った。
それがまた、罪悪感を増幅させ私を自殺へと導かせる要因にもなった。
ある日、その時によく飛び込んていた崖に向った。
飛び降り自殺をしに。いつもの様に崖の先に立ち、下を覗く。
尖った岩に荒波がぶつかり、大きな音を立てていた。
一歩踏み出す。石が崖下に落ちる。もう一歩踏み出せば、飛び降りることが出来る。
……そのはずなのに、何故か私はもう一歩を踏み出す事が出来なかった。
何度もやっている事なのに、出来なかった。
胸の中に不思議な何かが出来上がっていく。
不安、恐怖、痛み。
それら全てが混ざり合い、涙という形で現る。
飛び降りて死ねないならと思い毒を飲もうとしただが、あの苦痛を思い出し一向に飲めない。
手首を切ろうとしても、恐怖で剃刀を握る手が震え、切れない。
汽車に飛び込もうとしても、四肢がバラバラになる感覚を恐れ、飛び込めなかった。
私は理解した。自分が、死と言うものを恐れていることに。
何度も試したが、苦痛や苦しみを恐れ日常だった行為は出来なくなってしまった。
それからというもの、一ヶ月に一度私は街に行き生者の血を啜り、それ以外の時はただベッドの上で天井を眺める生活を送っていた。
生きているが死んでいる。そんな生活を十年間。
しかしそれも、鏡を見たことで終わりを告げられる。
一向に年を取る気配がないのだ。
地中で目覚め、早十一年。本来ならシワの一つ、何か変化があるはずなのに私の顔や体は何一つ変わらない。
若い娘のままだ。
更に十年経っても、変わらない。
人の生き血を啜り、年も取らず、死ねない私は化け物だ。
不老不死である事が分かり、これまでやって来たこと全てが無駄だったと悟りこれ以上の足掻きが無意味であることを痛感した私は、一晩中狂った様に笑い続けた。
それから私はせめてもの救いを求め、様々な事を体験した。
色んな国を巡り、様々な仕事に就き、時には恋に落ちたりもした。
だが、一向に年を取ることが無い身体では普通の人間とは添い遂げることが出来ない。
いつしか、恋を忘れ一人の時間が長くなっていった。
そして時代は流れ、二度の大戦を経験し二十年が経った頃。
私は洋書の翻訳家として、アジアの島国日本での生活が始めた。
それから六十年が経ち。二度目の東京オリンピックが開かれる年。
私は、一人の少年に出会った。
彼は寂しそうな目をしていた。居場所を失くし、死んだ目で町を眺める少年に私は過去の自分を重ねてしまった。
何処か波長が合ったのか、意気投合した私達は良く会うようになっていた。
結末を私はよく知っていたはずなのに。
案の定、その時は来た。
唐突に出た、喉の渇き。
朦朧とする意識の中、私は彼を家に帰らした。
それから、吹き出しそうな感情を抑え紛らわす為にひたすらに物を食べ続けた。
けれど、治まることのない衝動は増すばかり。
深呼吸を繰り返す内に、一日が経った。
チャイムが鳴る。
「―――――」
彼の声だ。きっと私の事を、心配しているのだろう。
だが、その善意すら私には受け取れない。
よろめきながら玄関に行き、彼が近づかない様に必死に拒絶の言葉を口にする。
喉の渇きが耐え切れなくなりそうだ。
荒い息でベッドに潜り込む。
深呼吸すらままならない。
耐えろ。
耐えろ。
耐え……。
不意に、玄関の開く音がし彼が私を呼んだ。
頭が真っ白なり。力が抜けていく。
身体は、彼の血を欲している。
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