16 黎明
*
三陸の海が拡がる。鈍色の海原から冷たい風が吹きつける。髪は男のように短くカットしたから、顔にまとわることはない。
たった一人になってしまった。家族も友人も捨てた。今の満裡は失踪者だ。
この海を越えて遠い処へ行ってしまおう。再び戻ることなく……
あの日、黒十字に包囲された夜。満裡たちが跳ばされた直後、仲嶋邸で大爆発が起きた。ガス爆発と報道され社会的には決着したが、後に仲嶋から聞かされたのはまったく違う話だった。
支援ネットワーク所属の科学者による説明はこうだ。
四人もの容積が十キロあまり離れた場所に移動したため、通路となった〈空間の狭間〉が捻じれの限界を超えた。伸びきったゴムが瞬時に戻る。捻れは急激な逆回転で凄まじい衝撃波を生みながら、起点となる仲嶋邸を直撃して収束した——
爆心地に不審な死体は一つもなかった。黒十字が大あわてで回収したのだろう。
ここに一つの希望がある。彼方の星の光ほど微かな
混乱に乗じて、黎には逃げるチャンスができた。あるいはネットワークに救出されるチャンスが。爆心は一階、黎は二階もしくは邸外。銀の手錠で跳べない黎に、与えるチャンスはそれしかない。
この
科学者は、こうも言ったという。「
だが、そんな
陽が傾いている。長い時間ぼんやり海を眺めていた。
砂の道を引き返した。防風林を抜けて土手を越えると、先に小さな町がある。忘れ去られたような地方の、さらにはずれ。そこに建つアパートが今の棲家だ。厚い雲の下、人通りの絶えた道を辿る。
外階段を上って部屋に戻る。殺風景な部屋。若い女性のものは何も置かれていない。生活に必要なものだけだ。
二階を選ぶのは、前の住まいと黎の部屋がそうだったからだ。窓からは、土手に遮られて海も見えないが。
それでも充分なケアを受けている。
週一回来てくれる婦人科の
不倫のタネを宿したふしだらな娘、と大家は思っているらしい。たまに訪ねる仲嶋さんは、おおかた不倫相手にでもなっているのだろう。かわいそうに。
「ベビーの名前は決めたの?」
「メイ。男の子でも女の子でも。明るい、の〈明〉と書いて」
「何か意味があるの?」
「パパの名前と繋げれば」
「パパは、
わたしの
「順調よ。もうじきね。産院のほうは準備できてるから」
そんな会話があったのは、一昨日のことだ。
棚に一冊の文庫本が載っている。仲嶋に頼んで手に入れた。胎教に悪いのでは、と彼は心配したが、どうしても読みたかった。
ブラム・ストーカー作の〈吸血鬼ドラキュラ〉。吸血鬼物語の原典といわれる。
五百ページを超えるものを一気に読んだ。伝承を集め、考証のうえに書かれている。ヒト側の執筆者は、冥種をバケモノとして描く。
娘が吸血されるくだりがある。
娘はバケモノから逃げ廻ったりしない。月夜の
満裡は、その時代の
身内によって胸に杭を打ち込まれ、絶命した娘。掟やぶりの恋など許されない時代だ。
夜半——
満裡は目覚めた。腕にチリチリする感覚がある。静電気を帯びたように産毛が立っている。
雲が割れ、窓から月光が射して闇を薄めている。海底のような室内。
やって来る者がいる。ここへ。まっすぐに。
丸く膨らんだ腹に手を置いた。
どこかの犬が激しく吠えた。異質なものを嗅ぎとったのだ。だがすぐに、それは怯えた
満裡はベッドを下りた。そして鏡に向かい、髪だけを整えた。化粧する時間がない。
——
満裡は玄関に向いて立った。
昂りはない。凪いだ湖面のように平らな気持で待つ。なんて図太くなったのだろう。
ドアの内側で、人型に空間がよじれる。デジタルモザイクが充ちる。
黎がそこにいた。
半年分背が伸びている。
「おかえりなさい」
「遅くなって、ごめん。救出されて治療を受けて、潜伏していたから——」
そんな話どうでもいい。キスが先だ。
満裡は抱きしめる。
月光に造られた二つの影絵は一つになる。一つの中で、三つの心臓が鼓動する。
このまま一つに溶け合ってしまったらいい。そうしたら、もう悲しい思いはしないで済む。
「躰、治ったのね」長いキスの後で満裡は訊いた。
黎は頷いた。目に生気が充ちている。
「襲撃されたのがショック療法になったようだって、
「じゃあ、初めからわたしがスパルタ教育すれば良かったんだ」
心持ちふっくらした頬には、生えはじめた柔らかな無精ヒゲがある。男の
抱き合った二人に挟まれて
「メイって名前にしたの。いいでしょ?」
「もちろん」黎は掌を
「とっても強いの。乱暴者になるかも。女の子だったらどうしよう」
「満裡先生そっくりになる」
満裡は微笑みながら夫を睨んだ。
黎は
血液——メイに必要なもの。生まれてからでいいのだが。
亜種のわたしには必要ない。それでも、唾液が湧くように吸血牙が伸びる。愛する者の血を求めている。
わたしは血を吸う。正真正銘の吸血鬼だ。
いや、鬼などと言うのはよそう。鬼はヒトのことなのだから。
わたしたちの黎明が始まる——
※ 怪物との戦いを避けよ、さもなくば自分もまた怪物となる。
ニーチェ
跳ぶ。花嫁 安西一夜 @nohninbashi
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