10 ヤブキ
*
影に気づいたのは、それから一週間後のことだ。影は距離をおいてふっと視界の端を掠める。
学校の帰り、満裡はわざと駅裏の歓楽街に足を向けた。通り過ぎたコンビニに影がいたからだ。
開店にはまだ早い横丁に人の姿はない。並んだ酒場の間にある路地に滑り込んだ。背の高さを越えてビールケースが積み上がっている。その上に細く切られた空がある。積まれたケースの陰に潜んだ。
一分も経たない内に影が目の前を通った。目標を見失って顔を巡らしている。ようやくこちらをふり向いた。満裡の顔を見てバツが悪そうに俯いた。「どこへ行くかと思ったら、はめられたのかよ」
「ご苦労さま」満裡は言った。
「わかってた?」ヤブキは口を尖らせた。
「尾行のへたなボディガードさん。刑事にはなれないね」
「尾行じゃない。巡回」
「じゃあ、おまわりさんだ。ね、コーヒー飲も」
路地を抜けて大通りに出る。近くのコンビニでコーヒーを買い、公園のベンチに並んで座った。
公園のむこう側の入口で、誰かが見ている。満裡が気づくと、すぐに顔をそむけて歩き去った。健介の友人だった。
ため息が出る。
「わたしって、ボディーガードが要るくらい、そんなに危険なの?」訊く。
ヤブキは真顔で頷いた。「
房江をおばさん、黎をぼっちゃん、と呼ぶ。二人とも嫌がるが意に介さない。
「ヤブキくん、仲嶋家に住んだらいいじゃない。黎くんの用心棒で。部屋はいっぱいあるし」
「そいつはダメだ。関係なさそうなヤツは、出入りさせないように用心してる。目立たないように。おれがあの家に出入りするときは、おばさんとお手手つないで狭間経由だ。それに、おれがいなくても……おばさん、強えェぜ」
「強い? 房江さんが?」
「ああ。最初に会ったとき、あっさり
満裡は絶句した。胸の内にある房江への小さな憧れが、グンと大きくなる。カッコイイ。
ヤブキはタバコのパッケージから一本咥え、開け口を満裡に向けた。アロマドールにいたとき、ホテルの部屋で二人で喫った。
満裡は小さく手を振った。
「やめた?」
「うん。もともと好きでもないの。悪ぶってたの。ああいう仕事してたから」
いつの間にか喫わなくなっていた。風俗にいた理由を房江が明かした、あのときからだ。
ヤブキは一度咥えたタバコをパッケージに戻した。
二人が出逢った処は人に言えたものじゃない。めいめいが思い返し変な間ができた。
「わたしね、ほんとは恥ずかしいんだよ、ヤブキくんに逢うの」
「なんで」
「だって、ハダカ見られてるし」
横目で窺った満裡は信じられないものを見た。
ヤブキは赤くなっていた。
「おれの顔になんか付いてるか?」
「ううん。ヤブキくん、全然違う人になったみたいで。だいじょぶかな、って」
ヤブキは口を歪めて皮肉っぽく笑った。「おれは、元々は、おとなしい子供だった」
「それはちょっと、信じられない」
「小さな頃、新しい父親がやって来たんだ。そのオヤジは毎日おれを殴った。腕を捻じったり、タバコの火を押し付けたりした」
満裡の顔から表情が消える。背中にあった無数の火傷痕を思い出す。
「オフクロにオヤジの子供——弟ができると、苛めはエスカレートした。脇腹に傷があったろ。ケツにもある。犬に噛み千切られた痕だ。オヤジがけしかけた。おれを縛って。喰い殺されると思った。本当に殺そうとしたのかもしれん。貧乏だったから」
躰が芯まで冷えてゆく。「おかあさんは? 庇ってくれたんでしょ?」
「見てただけだ……笑っていたような気もする」
「そんな——」
「大学へ行くお嬢さまには縁のない世界だ」一度は仕舞ったタバコをヤブキは咥えなおした。苦い過去のように煙を吐き出す。「子供ってのはオマジナイを覚えるんだ。我慢するオマジナイ。タバコの火を当てられたら、
もうやめて、と言いたかった。だが聞き続けた。おとなしい子供が目に獰猛な光を宿すまでの
「外で泣いていたとき、
胸の内を砂混じりの風が吹き抜ける。満裡は感情を凍らせて、ヤブキの言葉の世界に居た。
「十六のとき家へ戻ってオヤジを半殺しにした。オフクロは腰を抜かして、おれから逃げようと這いずった。オヤジをぶちのめしたら、どれだけ嬉しいだろう。ずっとそう思ってきた。でも違った。全部バカバカしくなった。おれのパンチに惚れ込んだ人がいてな。その人のジムでボクシングを始めた。デビューして勝ち続けた。世界チャンピオンになれると言われた。ところが、昔の報復ってやつで傷害事件が起きて、おれはパクられた。ボクシングはやめた。おれは敵が多過ぎて、またジムのみんなに迷惑かけるから——」ここで途切れた。隣でしゃくり上げる満裡に気づいたからだ。
満裡は頬を伝う涙を拭おうともしなかった。
歪んだ視界をヤブキが覗き込んできた。
「悪い。泣かしちまった。こんなこと人に喋ったのははじめてだ。昔の話だ」
「わたしが——」涙声で言う。「また、おかしなことに引き込んだ。ごめんなさい」そのまま顔を覆って泣いた。
「違うだろ。追っかけたのはおれのほうだ。亜種とかになって、よくわかった。これから戦う相手はオヤジたちだってことを。ヤツらが欲しがるものは渡さない」満裡の手をとって顔から外し、笑いかけた。「おれは
「兵隊って……」満裡は泣き顔で笑った。「なんか、古い」
「ギョーカイ用語だ」
それから数日、満裡はヤブキの影を見なかった。プライバシーを尊重してくれたのか、それとも巡回がうまくなったのか——そんなことを考えていたが、どちらでもなかった。街なかで、顔が腫れあがったヤブキに逢った。紫色の瞼で片目が塞がり、首にコルセットを巻いていた。満裡を見て不敵に笑う。黙ってそのまますれ違った。
房江に尋ねると、密かにため息をついてから答えた。「昔の連中と切れてきたそうよ。何にでも暴力ね、おサルさんたちは。でもあの子、無抵抗だった。拳に傷がなかった」
満裡は何も言えなかった。情けなくて。
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