09 跳ぶ 


 常夜灯に浮かぶ寝室。窓のむこうに街の灯りが瞬く。いつかの日のようだ。

 黎は白い顔でベッドにいる。僅かな光を集めた瞳が満裡を捕らえる。

「具合、どう?」

「あまり良くない」

 ベッド脇の椅子に腰を下ろした。「黎くんって絶滅危惧種だったのね」 

「なんで冥種に生まれたのかな、って思う」黎は口を尖らせる。

 掛け布団からのぞく手を満裡は握った。前のときのように電流がはしることはない。その代わり暖かな波が満裡の手に寄せた。幼い日、縁側の陽だまりに手を置いたときのように。

 満裡の頬を涙が伝う。なんで泣くんだろう。

「部屋の明かりを消したことあったでしょう。あのとき、少しの間きみはガラスに映らなかった。空間の狭間に隠れてわたしの近くに寄ったでしょう?」

 房江にいろいろ説明されたと黎は了解したようだ。恥ずかしそうに白状した。「うん。跳んだ」

「とんだ?」首を傾げる。

「狭間を抜けて移動すること。っていうんだ。あのときは跳んで先生の近くにいた。髪の毛がとってもいい匂いだった」

「とんできて匂いをかぐって、虫みたい。ほんとはもっと早く、あのとき虫さんに咬まれていたかも、だよね」

「……ごめんなさい」

「どうして謝るの?」握った手に力をこめた。「ねえ。そんなことしないと思うけど、房江さん、その気になれば、狭間からこの部屋を覗けるのよね。やだな」

「こっちも狭間に行けば、入る層が違うから、中ではお互いが見えない」

「よくわからないけど、わたしは行けないんでしょ?」

「ぼくに触れていれば行ける。十五分くらいが限度……」

「十五分で充分。行きたい、そこへ」

「銀のアクセサリーとか着けてない? 純度の低いやつはいいけど」

「着けてない。どうして?」

「跳べなくなる」

「ふーん……」

 いばらの冠の仕掛けは、銀の鎖のようなもの。それが跳ぶことを封じた——

 満裡は握った黎の手を揺すった。「行こう!」

「もう狭間の中だよ」

 鏡面となった窓ガラスに映るのは、空っぽのベッドと椅子。そこは無人の部屋だ。


 玄関に房江が送りに出ていた。恥ずかしくて満裡は俯いた。

「今日は驚くことばかりでしたね。大丈夫ですか?」

「平気です」応えて顔を上げると房江が目を丸くした。

「ちょっと待っててね」小走りに奥へ引っ込み、救急バンを手に戻ってきた。それを満裡の首に貼り始める。

 今日は咬まれてないのに……そう思ったとたん頭に血がのぼった。キスマーク! 

 房江の口元が笑いをこらえている。

 バレバレ。消えてしまいたい。でも、わたしは一人じゃし。

 救急バンは四枚も要った。

 房江はすこしためらってから、「あの、念のために言いますけど、覗いてませんよ。これからも絶対」

「大丈夫です。狭間にいました」

「あら、もうそんな処へ」房江は微笑む。それからちょっと考えて「……今日ぜんぶ済ませましょう」

「はい?」

「もう一度待って」房江はまた奥へ行く。

 誰かいる。抑えた話し声がする。

 パパ役の仲嶋さんかしら、などと思って待つと、房江が連れて来たのは若い男だった。

 満裡は息をのむ。——どうして。

 ヤブキがそこにいた。だが、驚くほど印象が違っている。黒く戻した髪など些細なことだ。目の奥でぎらついていた剃刀の光がない。

「亜種になれたのです」房江は吉事であるように言った。「わたしの気配に敏感だったから、素質があるとは思っていたけど。覚醒したのです。ね」家族へのような柔らかな表情をヤブキに向ける。

 強張った顔の満裡を見て、房江は付け加えた。「悪いものは溶けたから、もう暴力的ではないわ」

 溶けたのは、目の奥の剃刀……

 棒立ちになっていた満裡は、急に思い出して、首の救急バンを手で隠した。

 そんなそぶりに頓着せずヤブキは言った。「頼りがいのあるボディガードだぜ。よろしく、ネム——失礼、花嫁ヌプタ

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