08 照明を忘れた部屋 

             *


 週明けの午後。通い慣れた坂道は曇り空の下で陰鬱に見える。翳った陽はもう低い。夢で見た光景と重なった。岩場の坂を上る食用のヒト。同じように満裡は上る。先に見える仲嶋邸へ。〈彼らの城〉へ行くのだ。

 不思議に恐怖を感じない。

 いつもの訪問よりずっと早い時刻に着いた。

 〈彼ら〉は待っている。満裡はインターホンを押した。

 房江の声が応じる。いつもどおり。だが、玄関で迎える表情は硬い。

「お待ちしてました。こちらへ」

 玄関横の応接室へ通された。

 欧州調に設えられた部屋は天井が高い。窓から庭が見える。応接テーブルのソファをすすめられて満裡は腰を下ろした。

 お茶は遠慮した。仕度に行きかけた房江は戻って、向かいのソファについた。

 何も言わず、満裡の顔に微笑む。先に話せということだ。

 真横に位置する窓のカーテンは開かれ、午後の弱い光が房江の片側の頬を照らしている。

 戦闘開始。満裡は口を開いた。「房江さんは太陽が平気なんですね。この前も外で会ったし。黎くんとなんでしょ?」同類という言葉に力を込めた。

 房江は目を伏せた。「何から話しましょうか……まず、わたしと黎さんの二人は、〈冥種めいしゅ〉というヒトとは違う種族です。仲嶋は黎さんの父親役をしていますが他人です。冥種は子供の時期、太陽の光にとても過敏ですが、成人するまでに体質が変化して克服します。変化の時期には体調を崩します。たいていは数日のことですが、まれに重症化します。黎さんがそうです」言いよどむが続ける。「命を落とすことも、ないとは言えません」

 命を落とす、という言葉に動揺した。それでも満裡はプラダから小袋を取り出した。応接テーブルの上に、に向けて、用意した袋の中身をばらまく。

 手鏡、十字架のペンダントトップ、生ニンニク、銀製のスプーンと指輪——有り合わせの守護天使たち。

 テーブルに載った手鏡に、房江ははっきり映っている。映った頬と唇が苦笑している。

「効かないんですか? これ」

「中にはニンニク嫌いな者もいたのでしょう」房江の目は穏やかなままだ。スプーンを取り上げた。「純銀製ね。これは効く場合もあると言っておきましょう。映画みたいに火傷したりはしませんよ」指先でくるくる廻してから戻した。それから居住まいを正し、話し始めた。「遥か昔のことです。言葉も持たない、まだ猿人に近い人類の中に、脳の機能が桁違いに発達した稀少種が現われました。東ヨーロッパ、寒さの厳しい土地です。子供時代に太陽光で躰を壊すことから、〈冥種〉などと不吉な名前で呼ばれます。吸血鬼伝説の始まりです。でも冥種は優れた知性で文明の基礎を創り、猿人を現行の人間ヒトへと導いたのです」

「その冥種の食用なんですよね。わたしたち」

「夢を見ましたか?」

「ええ。黎くんに咬まれた後で」満裡は夢の内容を覚えているかぎり詳細に話した。

 キリストのくだりで房江は驚いた顔をした。しばらく思いつめたようにテーブルの十字架を見つめていたが、切り替えたように会話に戻った。

「食用というイメージはちょっと……切り刻んで食べるわけじゃないから。わたしたちに必要な血液をいただくだけです。この吸血牙きゅうけつがで」上歯茎を見せるように口を開く。両犬歯辺りの歯肉から、一対の細い針状の牙が現れ、そしてまた引っ込んだ。「この牙から分泌される向神経物質——冥素めいそ——は咬まれる痛みを抑えて軽い酩酊を起こします。咬まれた痕も早く治る。あなたにつきまとった男には、冥素を多めに分泌して失神させました。武器にもなるということです。そう言ったら怖いですか? でも良い作用がある。冥素は未発達な脳を活性化します。上位の、理性脳という部位を発達させます。古代の猿人たちは吸血の恩恵として知性を得ました。そして文明へと歩み出したのです。冥種はヒトを育てた親のようなもの」

「それなら……」

「なぜ対立するか?」房江は虚無的な笑みを唇に浮かべる。「知性が冥種に追いついたとき、ヒトはまず何を思ったか。冥種が目障りになった。共存など考えもしない。圧倒的な数の差で冥種を排除しようとした。絶滅を企てたのです。縄張り意識の強い原始脳——爬虫類脳がまだ支配的で、敵味方の区別しかできない。並び立つ異種族など認めない。根本的にサルのままです。生きているかぎり闘争にあけくれる。このまま突っ走って世界を滅ぼすでしょう」

「サルですみません」

「あなたはもう違いますよ。そんな感じはしませんか?」

 満裡は首を傾げた。自分の内側に耳を澄ませてみる。「あなたたちのになったということですか?」

「あなたは亜種になりました。冥種ではないけれど冥種に近い存在です。吸血されたヒトは僅かな確率で亜種になります。亜種になると〈種の記憶〉が蘇る。さっき話してくれた断片的な夢が冥種の記憶です」

「その夢になんでキリストが……まさか」

「彼は冥種です。しかも数世代ごとにしか現れない、強い力を持つ冥種。レクスと呼ばれる者」

「そんなこと。それじゃ、わたしたちが知ってる歴史って……」

「歴史はいつだって勝者がつづるのですよ。キリストの受難はショー化された冥種狩りなのです」房江はテーブルの十字架に目をやる。「処刑に使われた十字架はそれ以来、冥種かいぶつを封じる象徴となりました。すべては、祭司や長老にまぎれこんだ黒十字の者たちが演出したこと」

 黒十字! 出てきた——満裡は息をのむ。

「中世の魔女狩りも黒十字が扇動した冥種虐殺です。ヒトは疑心暗鬼になって、狂ったように冥種を狩った。疑わしいというだけで同類ヒトさえ狩り、生きたまま火炙りにした。ひどいものです」房江は語ることで消耗したように、大きく息をつく。「黒十字は現在いま、国際的な秘密結社となって政治の裏で息を潜めています。赤十字社、高度医療機器メーカー、臨床検査機関などの事業にダミー企業を通して参画し、非合法な手段で情報収集している。血液データをモニターして、特有の血液像を持つ冥種を探しているのです。同時に冥種以外の新たな変異種についても監視している。怖いのですよ、異種族の出現が。冥種を虐殺してきた記憶が、自らも同じ運命をたどる恐怖を連想させるのです」

 赤十字と聞いて、満裡は献血を思い返した。去年、街頭に停まった献血カーの呼び込みに誘われ、美知と二人で献血した。初めての献血だった。

「わたし血液検査されてる。献血したから。でも、ずっと前だから大丈夫ですよね」

 房江は頷く。「亜種になっても血液像はヒトと変わりません。特徴的なのは冥種だけです」

 話の異様さが加速する。息苦しくなる。だが、訊くべきことはまだある。

「房江さんも黎くんも、姿が消えますね。テレポートみたいな。あれ、わたしもできるようになったんですか?」

「亜種の方にはできません。それにテレポートとは違う。空間の狭間はざまへ入り込むのです。通常空間から見えなくなる。狭間を抜けて別な地点へ移動できますが、可能な範囲は数メートル。続けて何度もというわけにはいきません。狭間に留まれる時間も長くない。緊急時の隠れ場所……ヒトに狩られて逃げているとき、発現した能力です」

「その狭間の中からわたしを見張っていましたね。ホテルの部屋にもいたでしょう。何故ですか?」声が尖る。ここは許せない。

 房江は俯く。「満裡さんが、かけがえのない人だからです」

「へえ。血が特別おいしいとか」

「覗いたのはごめんなさい。怒って当然です。でも心配だったの。冥種の個体数は激減しました。もう百人に満たない。世界中へ散り散りになって逃げています。だから冥種同士の結婚はとても難しい。ヒトと結婚しても生まれるのは亜種であって冥種ではない。でも、ある因子を有するヒト女性との間には冥種の子供が生まれるんです。その特別な因子を持つ女性はヌプタと呼ばれます。花嫁という意味です」まっすぐに満裡を見据える。「あなたは花嫁ヌプタなのです。満裡さん」

 胸を突かれるような衝撃だった。「そんな勝手な。花嫁だ、っていきなり咬みついて。レイプじゃないですか」

「黎さんが嫌いですか?」

 言葉に詰まる。

「あなたは探していました、無意識のうちに、冥種のを。花嫁ヌプタの本能が探すのです。でも、。だから男性に触れる仕事をした」

 満裡は茫然とその言葉を受けとめた。ぐらりと世界が揺れるような気がした。あきらめて放置したままの難解なパズルに、かなめのピースがカチリと音をたてて嵌まった——

「マグダラのマリアを知っていますか? 娼婦から使徒となり、イエスの妻となる女性」

 満裡は頷く。「知っています」

「マリアは花嫁ヌプタです。冥種の夫を探すために男たちの躰に触れた。娼婦と言われながら。そうしないとわからないから。そしてイエスに辿りついた。本人にそんな自覚はないでしょうけど。……マリアになったというあなたの夢に驚きました。あなたはシンクロした……」房江の目が泳ぐ。その先を続けるべきか——

 気が昂っている満裡にそんなニュアンスは読めない。「だからわたしを家庭教師に雇った。そうですね」声に怒気が混じる。

「求め合う者同士を逢わせました。お節介なら謝ります。でも、花嫁ヌプタは冥種以外の男性は受け入れがたいと聞いています」

 周囲にぐるりと透明な壁が立ち上がった気がした。出口は一つしかない。そちらへ進むには、これまでの安寧な日常を捨てねばならない。壁の中で安寧な日常にとどまるなら、胸の内の熾火おきびを消さねばならない。熾火の消えた行く末——そこには色褪せた自分の背中が見えた。

 日が暮れる。照明を忘れた部屋に薄闇が漂っている。

「……黎さんに逢いに来たのでしょう?」

 満裡は俯き両手で顔を覆った。真実を知るために来たつもりでいた。けれど違う。黎に逢いたかったのだ。真実を知るなど口実にすぎない。

 両手から顔を上げ、影絵のような房江に訊く。「教えてください。マリアは黒十字から逃げられましたか?」

 房江は微笑んだ。「ええ。逃げのびて女の子を生みました。三日後の復活に立ち会ったとされるマリアは替え玉です。替え玉だとわかった女に、黒十字は手を出さなかった」

「よかった」

 満裡は立ち上がった。一つだけの出口に向かうために。

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