07 丘へ続く径

              *


 うそ寒い土地が彼方まで拡がる。流れる霧の中をヒトが歩いてゆく。粗末な衣類に身を包むヒトの顔はまだ猿人の形を残している。草木もない岩場を通るみちは緩く上り、先には石造りの古城が見える。

 ヒトは、そこへに赴く。かけがえのないものと引き換えに、自ら〈食用〉となる。血を捧げるのだ。

 場面が切り替わる。時代ははるかに下る。砂混じりの風を感じる——

 いばらの冠をかぶった男が坂道を上っている。痩せた躰が十字の角材を背負っている。兵士たちがその背中を棒で小突く。男は、自らが架けられる十字架を担いで処刑の丘へ向かう。

 行く道沿いに人々が群れる。「ペテン師」と罵声を、「奇跡を示してみろ」と嘲笑を浴びせる。

 奇跡は封じられている。いばらの冠の仕掛けによって。彼は逃げられない。

 〈わたし〉の運命の人——定められた、夫。

 〈わたし〉は隠れた場所から見ている。連行される姿に胸が引き裂かれるようだ。だが涙は出ない。悲しみに優先する使命があるからだ。護るように腕が腹を抱えている。この胎児と逃げなければ。黒十字のサルどもから——


 重い疲労感の中で目覚めた。

 何だ、この夢は。キリストが出てきた。クリスチャンでもないのに。わたしの運命の人だって。満裡はくたびれた笑いを口元に浮かべた。夢の中でマグダラのマリアになっている。美知に〈運命の人〉なんて話をしたせいだろうか。

 いばらの冠の仕掛け? 黒十字? RPGみたい。めちゃくちゃだ……

 頭を振りながらベッドを出た。

 黎とおかしなことになって二日後の日曜日。雨が降っている。満裡は窓枠にもたれ、濡れた黒い路面を眺めた。灰皿を引き寄せてタバコを点ける。

 黎。思い出すと意識が遠のく。魂が抜き取られるようなキス。わたしは暴風あらしの空に放り出された凧になって、何処へ飛んでゆくかわからなかった。

 あの子に、恋を、している。 

 胸の中で、はっきり言葉にしてみた。

 あのとき、考える、という機能が停止していた。思考を無視して躰がはしった。

 躰の中の、細胞の——満裡は思い返してイメージする——遺伝子が! ついの遺伝子を求めた。

 自分が描いたイメージの生々しさに、ごくりと唾をのんだ。

 傍らにスマホがある。取り上げて手の中でころがす。指が何度か迷ったあと、健介のナンバーをタップした。

 寝ぼけ声が応えた。ランチに誘う。寝ぼけ声はたちまちシャープになる。満裡のアパートに近いタイ料理の店を提案した。一度二人で行ったことがある。健介は覚えていた。予約しておくよ。彼は言った。


 食事が始まるまで、満裡はいつもより饒舌だった。それに相手をジロジロ見ていたらしい。どうしたんだよ、と言われた。

 料理が届くたびに気持がしぼんでゆく。口数が減る。食後のタイミルクティーを飲む頃、気持はすっかり平坦になっていた。

 目の前にいるのは大切な友人だ。やさしい同級生。健介に感じていたのは、芝生のように温かな友情だった。あのとき黎に向かった狂気とは比べることもできない。

 少年への思いが受け入れられなくて、確かめるために健介と逢った。だが、確かめねばならない感情が狂気にまさるはずがない。わかっていたことだ。

 健介がわたしの表情を気にしている。

 距離を置いたままいたずらに過ごした日々を詫びたかった。

 わたしが誘ったから、と支払いは満裡が済ませた。

 店を出ると、雨あがりの陽光に、濡れた路面が光っていた。風が冷たい。

 歩きながら健介は映画の話をした。次は何を見に行こうか。話題作を論評する。無口になったカノジョを盛り上げようとしている。

 彼は感じている。二人が終わる予兆を。だから話し続ける。沈黙が下りたあと、わたしが口を開いて発する言葉を封じるために。

 前方の路肩に車が停まっていた。ドアが開いて人が降りた。こちらへ歩きだす。

 満裡の背筋を冷たいものが這い降りた。

 ネイビージャケットと迷彩カーゴパンツ。口に笑いを溜めて二人を見ている。

「ネムちゃん、めっけ」

 ヤブキくん……

「ひでぇよ、黙って辞めちまうなんて。指名入れたら、辞めましただって。ガックリきた」両手をポケットに突っ込んで更に寄る。「そっちの人はカレシ? 紹介してよ」

 健介はヤブキと満裡の顔を交互に見た。あわてている。肉食獣の射程に捉えられた草食獣。逃げ道を探している。

「ぼ、ぼくは違う。カレシじゃなくて、ただの友人です」満裡に向ける健介の笑みは引きつっていた。「満裡ちゃん、またね。今日はありがとう」そう言い残し、身を翻して来た道を戻った。

「あーあ、カレシかと思ったら、ボクちゃんは友人か」ヤブキは嗤った。

 そのとおり。いつまでも距離が詰まらない友人だ。おまけに、こんなのまで出てきたら逃げ出したくなるだろう。

「そんな怖い顔すんなよ、ちゃん」

 本当の名を呼ばれる。それは魔法を解く呪文になってネムに降りかかる。ネムは淡雪のように昼の光の中に消え、マリだけが残った。

「何で居場所がバレたかって思ってる?」得意気に言う。「閉店までのは店のスタッフが車で送るだろ。家の近くまで。ネムちゃんは深夜出勤少なかったけど、運転したスタッフは覚えてた。そいつ、おれのツレ」謎解きをした名探偵のように唇の端を吊り上げた。

 切れたと思ったアロマドールとの糸。切れてはいなかった。それををたぐってきたのだ。ここまで——

「マエダさんに暴力ふるったでしょう。警察に言うから」満裡はじりじり後退する。

「あのオヤジ、マエダっていうのか」鼻で嗤う。「警察に何て言うんだ? わたしのお客がわたしのお客に殴られましたって? マエダはネムなんか知らないって言うさ。名前が出ちゃ困るんだ、ああいうのは」袋の鼠に笑いかける。「一回つき合えよ。一回でいいから。な、いいだろ」

 そんなわけない。わたしを見つけ出した執念。躰が震える。

 ヤブキの手が腕にかかった。人通りはない。空き地の点在する脇道だ。

「乗れよ」顎で車を指す。腕を曳かれる。

 そのとき、さあっ、と何かが目の前をよぎった。虫の群れ? 砂埃?

 ヤブキも気づいた。腕をつかんだ手が離れる。

 細かいデジタルモザイクの群れが魚の群泳のように宙をうねり、人型に収束した。それは林房江になった。

 傍らに現れた中年女にヤブキは目を瞠った。

「何だ、おまえ、何処から――」言い終わることはなかった。房江は水が流れるように動き、ヤブキの喉元に喰らい付いていた。

 ヤブキは引き離そうとしたが、急に支えを失くしたように舗道に崩れた。

 満裡は茫然と立ちすくんでいた。

 ヤブキから離れた房江はこちらを向いた。口の中へ引っ込む鋭い針のようなものが見えた。モーヴのレジに立つときの黒いスーツ姿。ウェーブした髪は乱れて目にかぶさり、口の端に血が付いている。

「怪我はありませんか?」その口が喋った。

「だ、大丈夫です」絞り出すように応えた。

 かぶさった髪の奥から、鈍い光を宿す目がこちらを見ている。

 これ——知っている。街角やホテルの部屋で感じた気配は――この視線だ!

「この人、どうなったんですか?」ヤブキを指さす。

「すこし経てば目を醒まします。ここから移動してください」房江は背を向けて歩きだし、すぐの路地を折れた。

 棒立ちになっていた満裡はあわてて後を追った。路地へ曲がるが房江の姿はない。

 消えてしまった。きっと現れたときのデジタルモザイクみたいに、クシャクシャっと……

                

 常識から外れた領域のことが身辺に起きている——

 帰宅した満裡は浴室の鏡の前に立った。確信を伴った不安がある。

 房江の牙。今日それを見たことが、気のせいで片づけた黎の牙を現実のものにした。

 ガラスに映らなかった黎……あれも現実に起きたことなのだ。

 目の前の鏡に蒼ざめた自分の顔がある。

 鏡に映るということは——わたしの躰はまだ無事なのだろうか?

 肩に掛かる髪を両手で後ろに束ね、目を凝らす。見つけた。左の首筋。見落とすほど微かな窪みが二つある。二本の犬歯の間隔くらい開いて。

 一度だけ献血の経験がある。太い採血針はしばらく窪みのような痕を残すが、それに似ていた。

 ——黎に咬まれた。口の中へ逃げるように消えた針状の牙に。仲嶋の邸に棲む吸血鬼……

 あの日、ケーキを手づかみで食べたのは、血を吸われたせいにちがいない。経験したことのない飢餓感だった。

 ネットで 検索をかけた。〈吸血鬼〉〈ヴァンパイア〉〈ドラキュラ〉——来歴、伝承、特徴、弱点、撃退法、吸血された者の症状、その治療法……迷信であろうがフィクションであろうが、とにかく情報が必要だ。

 中世。東ヨーロッパ。蒙昧の世に吸血鬼は出現する。闇、恐怖、死を糧に〈彼ら〉は夜を徘徊する。姿は鏡に映らず、蝙蝠、狼、霧に変化する。嫌うものは、日光、十字架、ニンニク——

 以前なら笑ってしまう定番ホラー。が、自分は既にその世界に取り込まれている……

 逃げ出すべき状況なのだろう。だが、もうできない。咬まれたからだ。このあと自分はどうなるのか。説明を受けねばならない。そして、何故あの場に房江が現われて、ヤブキから守ってくれたのか。訊かねばならない。〈彼ら〉から。

 

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