06 陶酔


               *


「黎さんの具合が悪くて今日は寝たままだけど。ごめんなさいね」玄関で迎えた房江はそう言った。

「勉強なんかして大丈夫ですか?」

「お話相手がほしいようです。いいかしら」

「もちろんです」

 いつもの勉強部屋でなく向かいの部屋へ通される。黎の寝室だ。

 照明を絞った部屋。リクライニングベッドで、少し背を起こした角度で黎が休んでいた。パジャマ姿だ。枕元の小テーブルには学習書が載り、スタンドライトが照らしている。光の跳ね返りを受けた顔がいつもより蒼白く見える。満裡はあえて具合を尋ねなかった。

「勉強部屋と寝室が別って豪華ね。わたしなんか机の隣がベッドだった。勉強嫌になって真横に倒れたら、即ベッドの中」テーブルの椅子に腰を下ろす。「さて……と、房江さんに聞いたけど、今日はお喋りでいいのかな?」

 黎は頷く。

「じゃあ社会科の授業、始めましょう」

 お喋りは社会科の授業。マエダが言った言葉だ。ふと思い出していた。妙な間が空いた。

「なに考えてるの? 好きな男の人のこと?」黎が訊いた。

「あ、ナマイキ言う。キミこそ好きないるんでしょう。キミらの年頃の話題って女の子のことばっかり。そういえば、女の子の話って一度もしてないね」

 くすっと黎は笑った。

「今日は聞かせてもらおう。そうだ。坂の上に女子高があるでしょ」ふざけた調子で言う。「キミが憧れるステキなあの娘は、坂道を通学する美少女でした。この部屋から見えるよね。どう?」

 窺うように黎の瞳に視線を投げる。その瞬間、満裡は捕えられた。彼の瞳以外のものが、みな視野の外へ放り出される。瞳は暗いグリーン。深くて。曳き込まれそうなくらい。そこへ流れ墜ちて——

 え?

 我に返った。跳び越えたような空隙が意識にある。

 細い針状のものが黎の唇の奥へ引き込まれるのを、満裡は見ている。ぼんやりした意識は、それを気のせいと解釈している。考えるのが、だるい。

 ——わたしは何をしてる?

 宙ぶらりんな感覚。

 ノックがあった。房江がトレイを手に入ってきた。いつものように。小テーブルの学習書が片づけられ、紅茶とケーキが置かれた。房江は退室する。

 満裡は頭を振る。ぼやけた焦点を戻そうとして。腕時計。赤い文字盤のスワロフスキー。一時間以上が経過している。うそ……

 白いクリームが盛られたケーキ。それを見た瞬間、怖ろしいほどの飢餓感が襲ってきた。満裡は喰らいついた。詰め込めるだけ口に詰み込み咀嚼する。呑み込む。甘味が歓喜となって全身をかけ巡る。

 食べきったときは肩で息をしていた。我に返る。空になった二つの皿とクリームまみれの指を茫然と見た。フォークを使わず手づかみで食べていた。黎の分まで。

「わたし、手で……ばかみたい」添えられた紙おしぼりで指をぬぐう。クリームまみれの口の周りも。「ごめんなさい」

 黎はこちらを見ている。顔色が明るい。表情に力が戻っている。

「どうしたのかな、ぼんやりして。何か、話をしてたよね?」

「ボクが、満裡先生に告白してた」

 満裡はふき出した。「何それ」

 気の利いた返しが出ない。めまいがする。

 黎の瞳を見返すと胸が締めつけられる。

 また——深いグリーンが呼ぶ。曳きずり込まれる。潮のように意識が引いてゆき——戻ると——

 唇がぬめる。かぶさる姿勢で黎の唇を吸っている。そのことに違和感を覚えない自分がいる。戯れるように舌が絡まる。黎の舌は少し冷たい。満裡の口の中、ホイップクリームの残滓が舐め取られる。陶酔——

 溺れる!

 金縛りを振り切るようにして満裡は躰を離した。唇と唇を結んだ唾液の糸が切れてあごを濡らした。

 テーブルにぶつかりながら立ち上がる。食器が音をたてた。

「帰る!」満裡はバッグをひったくって部屋をとび出した。

 顔を見せた房江に応えず玄関を出る。ふらつく足で懸命に坂道を下る。街の灯りを目指して。

 何がなんだかわからない。とても自分がしたこととは思えない。

 あのままでは性交に及んでいた。自ら望んで。

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