03 アロマドール
*
薬科大学の授業は午前中の講義と午後の実習に分かれる。科目が多くてけっこう過密だ。その合間に週二回ずつの家庭教師と風俗店出勤をねじ込む。
アロマドールは客から嬢へのタッチを禁止している。それが店を決めた理由だ。こちらから触っても相手は触らない、ことになっている。あくまでマッサージ店の体裁をとっている。ただし手技による性処理付きの。でも、それは建前で、ライトキスやライトタッチくらいはある。交渉しだいで裏営業をしてる
常連のマエダはきわめて紳士的だ。マッサージは早めに済ませて、後は添い寝でゴロゴロしている。社長業のストレス解消だと言う。店のHPにある販促ブログ〈ドールログ〉には、いつも礼を書いている。
〈M様、昨日はありがとう。三時間あっという間でしたネ。お夜食代までいただいちゃって。また一週間後かな? 楽しみに待ってるね♡〉
礼の書き込みはPRを兼ねる。ロングの太客がついている嬢。新規客は興味をそそられ馴染み客は競争心を煽られる。容姿の高スペックと相まって、ほとんど待機がないくらいネムは店の売れっ子になっていた——
その日、午後から健介と映画を見た。起伏のない展開の恋愛映画で、満裡は睡魔と戦うことになった。
その後、彼が予約した店でイタリアンを食べワインを飲んだ。健介はよく喋ったが、二杯目のワインを満裡が遠慮したあたりから口数が減り、窺うような目になった。
「おれって、いつまでも恋人未満かなあ」キスまでで滞っている同級生のカレは言う。
こういう展開になるとブレーキがかかる。
健介とならどうかわからないが、初体験の重苦しい憂鬱が再現されるかもしれない。二度も続けば、性交渉できないという事実が確定しそうで怖い。
「……もうちょっと、このままって、だめかな」
彼はすこし黙っていたが、微笑むと頷いてくれた。
帰り道。欠けた月の下を、少し落ち込んだようすの健介と手をつないで歩いた。アパートの手前まで送ってもらいキスをした。丸めた背中を見送りながら、満裡は虚ろにため息をついた。
*
照明を絞った天井の隅が妙に気になる。
マッサージを終えたマエダが隣に寝ている。気づいてネムの視線を追った。
「どうかした?」
「疲れているのかな。ゆらゆらして見える」
マエダの目が一瞬険しくなったような気がした。
新車の話をしていた。乗せてやろうと言うが興味はない。外で食事を奢られたことはあるが、それ以外の店外は断っている。
いつものように時間が過ぎてタイマーが鳴り、マエダは帰っていった。
次の予約が入っている。ヤブキというご新規さま。せわしなく事務所とラブホを往復する。今日のラストだ。
部屋で待っていたのは若い男だった。歳下かもしれない。
入ってきたネムを眺め下ろすように見て、「なるほどな。いい女だ」と呟いた。
「え? 誰かに聞きました?」
店で使う写真は顔にモザイクをかけてあるのだが。
「うん。いや、どうでもいい」答えかけたが、そのまま濁した。
タバコを咥え、ネムにもすすめた。ベッドに掛けて二人で喫った。
金に染めた髪、薄い鼻梁、切れ上がった目には剃刀のような光が宿る。背はそれほど高くないが、シャツを脱ぐと、引き締まった体幹は腹筋が割れている。
「すごいですね。ボクシングとかしてるんですか?」
ヤブキは鼻を鳴らした。「リングじゃなくて、路地裏でな」
浴室で男の躰を洗う。
男の脇腹と尻に、ひきつれた傷痕がある。背中には小さな火傷の痕が散らばる。拷問。そんな言葉がネムの頭をよぎった。
ベッドにうつ伏せになってもらう。アロマ入りオイルを掌に伸ばしてマッサージに入った。
脚から腰へ筋肉に沿ってさすり上げる。若い鋼の弾力が掌を押し返してくる。
仰向けになってもらうと、下から乳房をつかまれた。ネムは睨む。ヤブキはかまわず、もう一方の手をTバックの中に入れようとした。
ネムは弾かれたように飛びのいた。「だめ、タッチ禁止。ルール守って」
「ネムちゃん、可愛いな。ヤラせろよ」
「だめだめ、絶対だめ」
「何回来たらヤラせてくれる?」
「何回でもダメ。ここ、マッサージ店です」
「T バック一つで跨がって、なにがマッサージ店だ。M様とかいうオヤジにはヤラせてるんだろう。毎週来てるじゃねえか」
マエダさんのことだ。〈ドールログ〉を読んでいる。
「小遣いもらってるんだろ。三時間もホテルで何してんだ? することは一つだろう」
「Mさんはお喋りしたり、うたた寝するの。それがストレス解消なんだって。胸も触られたことないです」
ネムの口調は怒っていた。ヤブキは気圧されたような顔をした。
「枯れちまってるな、そのオヤジ。ま、いいや」唇を歪めて笑う。「威勢のいい女は好きだぜ」
お仕事再開。ゆるいジャズがBGMで流れている。
突然、ネムの背中が粟立った。ヤブキがとび起きるのが同時だった。ヤブキはベッドから降りると浴室のドアを開け、それからトイレを開けて中を覗いた。
「誰か、いた」呟いた。顔を巡らすが、狭い室内に死角などない。
ヤブキは玄関まで行き、ドアノブを廻して施錠を確認した。「気のせいか」納得しない顔のままベッドへ戻る。
ネムは驚いていた。おかしな気配を感じるのは、後ろめたさで意識過剰な自分だけと思っていた。他のお客は感じない。でも、この人は感じた。しかも、あの過剰な反応。まるで何かの襲撃に反応したような。誰かに恨みを買っているのだろうか。ありそうな気がする。
バタバタしたが、その後なんとかルーチンをこなした。
帰りがけにヤブキはチップをくれた。
特別なサービスをする気はないと固辞しても、強引に押し付ける。
ホテルの玄関を出た。ヤブキのジャケットを見送り、返しそびれたクシャクシャの一万円札を見た。
またすぐにやって来るだろう。
気が重い。
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