02 黎


               *


 一時間弱でアパートへ戻りシャワーを浴びた。ネムの匂いを排水口へ洗い流す。口紅を落とし保湿リップだけを曳く。ボディラインが目立たない萌黄色のカーディガンを選ぶ。浴室の鏡でチェックして部屋を出た。

 仲嶋邸へ向かう。

 十分ほどの距離にある薬科大の裏から山手への坂をのぼる。暗くなった歩道を街灯が照らしている。坂の上の女子高から、部活帰りらしい女生徒のグループが下りてくる。道の両側には大きな屋敷が並び、庭から冬の花が香っている。

 重厚な石塀に囲まれたやしきに着いた。門柱には〈仲嶋〉と彫られた表札が橙色の門灯に浮かんでいる。その下にあるインターホンを押した。

 木製の門扉が開き、林房江が笑顔で迎えた。「お待ちしてました、先生」

 先生と呼ばれるのが面映ゆい。拒んでも、房江も黎もそう呼ぶ。

 二階の勉強部屋で黎は待っていた。部屋は冷えびえとしていた。

「寒くないの?」

 言われて気づいたように黎はリモコンを操作した。壁のエアコンが受信音を鳴らす。「ごめん。寒いの平気だから」

 黎の白い手が机に載っている。傷も汚れもない、まだ子供の手だ。

 自分の手が伸びるのを他人事のように見ていた。伸びた手は黎の手を握った。陶器のように冷たい。

 しまった、と思ったのは後のことだ。触りたがる変な性癖くせが暴走した。

「冷えきってるじゃない」と、ごまかすように言う。「わたしの手、あったかいでしょう」

 驚いて引っ込みかけた黎の手は、握られたまま机上にとどまった。

 すると思いもしないことが起きた。

 握った手から電流に似たものがはしり、上腕を貫いて片側の乳首に及んだ。性感さえ惹起した。動揺を隠して満裡は手をほどいた。痺れたような感覚の余韻が、離れた後も、触れていた側の腕と胸の辺りに残る。

 黎の方は何も感じなかったようだ。ただ、いきなり手を握られて、どう反応しようか困った顔をしている。

 満裡は化学の参考書を開き、計算課題を与えた。その間に気持を鎮めようとした。

 手を握ったくらいどうということはない。でも、その後のビリビリって何? 

 シャーペンを走らせる黎を見ながら、満裡は茫然としていた。

 黎がこちらを見ている。

「え、終わった?」

 あわてて確認する。速い。

「正解。わたし、教えることがないよ」満裡は頁を繰る。

 本当は家庭教師などいらないのだ。頭がいいのは初回でわかった。

 わたしは生活の彩りで雇われた。最初から感じたことだ。だから、学習後には時間をとって話し相手になった。読書の趣味が合うので最初は本の話をしたが、材料が尽きると満裡の日常や郷里の話になった。満裡を通して世界を見ようとする少年の目に、ときに寂しさが混じる。彼には、語るに足る日常がない。そう思うと胸がつまった。

 元気になったら連れていってあげる。話の舞台を黎が気に入るたびに、そう言った。本当に連れてゆくつもりだった。


 定時になってドアがノックされた。いつもどおり房江が紅茶とケーキをローテーブルに用意する。

 退室する房江に礼を言って、二人でテーブルのソファに移った。

「モンブラン! 黎くんの処へ来るの、これが楽しみ」

 モーヴ自家製のケーキに満裡の口角が上がる。

「ぼくのも食べる?」

「だめよ、ちゃんと食べないと。貧血なんでしょ」

 黎はめんどくさそうに、フォークで栗を刺した。

 片側の壁一面に作り付けの陳列棚がある。ガラス扉の中には、帆船の模型が並んでいる。両手で抱えるサイズからてのひらサイズまで。はじめて部屋を訪れたとき、模型の精巧さと、作り上げた黎の情熱に感嘆の声をあげたものだ。

 船団は、黎がこの部屋で過ごした時間を刻んでいた。部屋からの出航を夢見て。

 カーテンの開いたサッシのむこうに街の光が見える。裏庭から下る斜面の先に、銀河のように横たわっている。棚の船団が、その銀河に向けて、滑るように走り出す錯覚を覚えた。

「きれいね」満裡は銀河に目を奪われる。「部屋が暗かったら、ホテルのバーから見る夜景みたいだろうね」

「消してみようか、灯り」黎は立って背後のドアへ行き、脇にあるスイッチを押した。

 とたんに夜が侵食して部屋が薄闇に落ちる。遠くまで拡がる街の光は思いのほか明るい。

「わあ、すごい」満裡はティーカップを両手でかかえ声をあげた。

 うなじに視線を感じる。黎が見つめている。その感覚が急に近づく。まずい。手を握ったりしたからか。

 髪に触れるくらいのところまで黎の気配が——

「灯り点けよう。房江さんが勘違いする」顔をめぐらす。そのとき、陳列棚のガラス扉に映る室内が視野に入った。

 ソファに満裡が一人。斜め後ろにドア。どこにも黎の姿がない。

 あれ? 

 部屋に灯りが戻った。急な照度の変化に瞬くと、黎はガラスに映っている。数歩うしろで、ドア脇のスイッチに手を掛けて。

 ふり向いて黎を見る。「ずっとそこにいた?」

「そうだけど」

 間近に黎がいたはずだ。息がかかるくらい近くに。でも瞬時にこの距離は移動できない。

「やだ、紅茶こぼしちゃった」ボックスから抜き取ったティッシュでスカートを押さえた。

 錯覚だろうか? 見誤るほど暗くはなかった。確かに一瞬……黎は消えた。

 房江に送られて玄関を出てからも、街の光へと続く坂道を下りながら、満裡は納得できずに首を傾げた。

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