跳ぶ。花嫁

安西一夜

01 ネム

 男のからだに触れると、アースされて余分な電荷が逃げるように気持がやすらぐ。、という妙な安堵感を伴う。この感覚への渇望が風俗のバイトをさせる。お金第一でないところが、たちが悪い。

 小さな頃から男の子と手をつなぐのが好きだった。戯れのキスやハグ。触れ合うと安心した。確かめるような安心感。友だちになれるかどうか、みたいな。スキンシップと言えば聞こえはいいが度を越していたらしい。幼稚園で〈さわり魔〉と噂がたった。すこし大きくなって、わたしはインランかもしれないと思った。でも今は、インランとは違うと思っている。性交渉はしたくないのだ。何度かあったアブナイ場面も、するりと逃げてきた。

 原因は高校時代の初体験にある。相手は一級上のカッコいい先輩だった。ところが、その後、言いようのない憂鬱にとらわれた。重苦しい罪悪感や自己嫌悪に苛まれ、嘔吐感さえ覚えた。何が悪かったかのかわからない。先輩とはそれきりになり、以後、誰とも性交渉はない。 

 トラウマでも絡んでいるのか。記憶をたぐっても、思い当たることはない。

 幼児期にイタズラされたような忌まわしい記憶が、無意識の底に押し込められているのだろうか。二度と浮上しないよう、いくつも鉄球をくくり付けられて。

 優秀な心理学者なら、わたしの心の暗闇に腕を突っ込んで、隠れたお化けをつかみ出すだろうか。ほら、これ。笑って奇怪な塊を見せてくれるだろうか。


 マエダの大きな掌がネムの躰を撫でている。半身に中年男の体温が伝わる。気持が凪いで、常連客の気安さから居眠りしそうになる。身に着けているのはTバック一つの仕事着。マッサージの最後に手でイカせ、残り時間を添い寝している。ゆるいお喋りがふわふわ宙を行き交う——

「ネムちゃん、今年四年生か? 就活だな。郷里くにへ帰るの?」

「田舎は嫌だから、こっちで就職します」

 在籍するのは六年制の薬学部だから卒業はまだ先だが、学部までマエダには教えていない。 

 椅子に置いたプラダの中でスマホが震えた。

「カレから電話だよ」マエダは言う。

「カレ、いないんです」

「カレ、ハンサム?」

「だから、いないって」

 スマホが静かになると、今度はタイマーが鳴った。

「さあ、追い出しベルが鳴りました」マエダはおどけて躰を起こした。

 シャワーを終え、帰りがけにチップをくれる。「晩ごはん食べて」

「わあ、いつもありがとう」

 お礼はキス。タヌキ顔のホッペに、ぶちゅっと。


 ラブホテルのエントランスから鉢植えを並べたブラインドを抜けて、ネムはするりと歩道にまぎれ込んだ。一年前から在籍する派遣型性感マッサージ店〈アロマドール〉。事務所はホテルに隣接する雑居ビルにある。戻って日給を受け取る。店を出れば、ネムは三浦満裡みうらまりに戻る。 

 春間近の足早い夕暮れが鋪道を染めていた。

 ホテル街の辺りは誰かに見られている気がする。隣県まで足を伸ばしていても、人目を気にしているのだろう。足早に通り抜け、駅近の喫茶店で一息ついた。

 メンソールの甘い煙を喫いながらスマホをチェックすると、マエダの言うとおり、先ほどの着信はカレだった。三十分以上経っている。

 リダイアルするとコール三回で繋がった。

「健介、ごめん。忙しくって」先まわりして言う。

「実習ない日だろォ? 何やってんだよ」

「ホントにごめん」

「じゃあ、六時に――」

「これからバイトなんだ。家庭教師。またあとで連絡するから」かぶせるように言う。

 健介はわざとらしいため息をついた。「はいはい、お待ちしてます」

 通話は切れた。

 窓の外、歩道に立つクリーニング店の看板が夕陽で金色に染まっている。去年の秋口、はじめて家庭教師先を訪れたときもこんな夕暮れで、坂道の街路樹は金色に輝いていた。

 家庭教師をするなんて思ってもいなかった。

 大学近くのフレンチレストラン〈モーヴ〉へ、よくランチに行く。レジに立つ顔なじみの中年女性——林房江に頼まれたのだった。

 仲嶋という店のオーナーには病気で通学できない息子がいる。日光アレルギーで長時間の外出ができない。高卒認定試験に向けて自宅学習しているから教えてほしいという。れいという十六歳の男子だ。

「年頃だから男の学生さんにお願いすべきなのかもしれないけど、わたしはやさしいおねえさんのほうがいいと思って」

「わたしがですか」満裡はとまどった。「いくらでもプロがいるでしょうに」

「プロはちょっとね…… あなたを見て、どうしてもお願いしたいと思っていたの」

 提示された報酬は破格だった。でも、それが決め手ではない。林房江はちょっとした憧れだった。知的で颯爽とした、デキる女というイメージ。今でも魅力的なのに若い頃はどんなに綺麗だったろう。歳を重ねたらこんな女性になりたい。そんなことを思っていた。その人の目に留まった。得意になって翌日には承諾していた。

 黎の特徴のある瞳が思い浮かぶ。よく見ると不思議な色だ。黒に近いほど深いグリーン。静かな宝石のように沈む色。端正な顔立ちも含め、ルーマニア人だという祖父の血なのだろう。

 健康ならスカウトされてるな。そう思い口元が緩んだ。

 五つ違うのか……歳の差を数えた自分に苦笑した。歳下になんか興味あったっけ、わたし。

 壁の時計を見て、席を立った。

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