0-5 きっと、いいこと

     ◆


 会員証ができましたよ、とアリスがそのカードを賀来に手渡したのは、秋になろうかという頃だった。

 シリアル番号があり、名前も刻印されている立派なものだ。

 賀来の番号は十番だった。事前の話では、とりあえずは一番から九番までを欠番にして、その番号は従業員に割り振るという。

 アリスはさりげなく賀来に一枚のカードを見せた。

 刻印されている名前は、知らない名前で、しかし番号は二番だった。

 この店でアリスに続く番号を受け取れる人は、一人しかいない。

 それはつまりアヤメの会員証なんだろうと考えながら、賀来はアイスティーのストローを吸った。アリスも深くは話さず、すぐにカードをしまった。

「連絡は取っているかな」

 どうしても堪えきれずに賀来が質問すると、少しだけアリスの表情が曇った。

「一応は、というしかないですね。アヤメさんから連絡が来ることはほとんどないですし、返信も短いものです。メールだけで、電話はありません」

 そういう境遇に置かれる人もいるのだと、そんな達観じみた発想で片付けるには、賀来はアヤメと近い場所にいすぎた。それはアリスも同じだと、賀来には見えた。

 しかしどうしようもないのだ。アヤメの問題は、アヤメ自身か、アヤメが助けを求めた誰かが、努力するしかない。アヤメは賀来もアリスも、遠ざけている。それが何よりの答えだろう。

 幸運を祈るしかない、と思いながら、賀来はアイスティーを飲み干した。

 アヤメが去ってから、アリスはどういう筋からか、人を雇い始めた。一番の年長はミスト、次がエレナ、三番目がニコルだった。ニコルは初めて店に店員として入ってきた時は高校一年生だった。

「高校生がアルバイトするにはいい店だが、高校生がアルバイトなんてしていいのかね」

 真夏の真ん中の一日であり、仕事の初日のその日、先に入っていたミストに色々と指示されているニコルを横目に、賀来はアリスに言ったものである。

「やる気があるのはいいことじゃないですか。それに、私だって高校生の時から働いていました」

 そうか、と賀来は感慨深いものを感じた。

 季節は巡っていく。秋葉原も、俗典舎も、何も変わらずに、日々が過ぎる。

 気づくと長い時間が過ぎた。俗典舎は儲かっているのかいないのか、何もわからないけれど、いつでも賀来を受け入れていた。そして他の本好きたちにも、極端にマニアックで、全く無名ながら、知る人ぞ知る場所として愛されてもいる。

 個性的な四人の従業員は、賀来の日々を照らし始めている。

 仕事しかない、読書しかない、限られた人としか接しない、そんな閉鎖的な状況に陥ろうとしていた賀来を、確かに俗典舎は救っている。

 あの日、名前も知らない男を殴り倒した日、賀来の中で何かが変わったようだった。

 平凡で、どこにでもいるはずの自分が、他人を助けたり、他人に暴力を振るったり、そういうちゃんとした感情のある人間であることを、長い人生の中で初めて意識したのだ。本の中にいる、役割を与えられた何者かのように。

 淡々と日々を過ごすだけではないことが、あの一瞬に、唐突に賀来に刷り込まれたようだった。 

「おかわりをもらえるかな」

 賀来がそういうと、いつの間にか黒いワンピースと白いエプロンが板についてきたニコルが返事をして、グラスを一度下げて、氷を入れなおし、新しくアイスティーを注いだ。

「彼は最近、来ているかね」

 賀来が何気無く訊ねると、ニコルはピタリと手を止め、しかしスムーズに動きを再開した。

「どのお客さんですか?」

 ニコルの口調の乱れに、賀来はおもわず笑っていた。

「十束くんだよ。熱心に来ているようだが、学校も忙しいのかな」

「土日にはよくいらっしゃいますよ。賀来さん、おやつのおかわりはいりませんか?」

 もらうよ、と返事をした賀来の手元から空皿を回収し、ニコルはすぐにスコーンとジャムを出してきた。

「昔話を、アリスちゃんはするかい?」

「賀来さん、今日はよく喋りますね」

 おっと、手痛い指摘だな、と賀来はバンザイしてみせる。

「老人になると、しゃべりたがるのさ、のべつまくなしね」

「そんな年には見えませんよ」

 賀来が言い返そうとした時、ドアが開いて、青年が顔を出した。

 十束という青年だ。彼は店内に空席を探し、賀来の隣が空いているのを見ると、店に入ってきた。ニコルが「いらっしゃいませ」と笑っている。

 こうやっていろいろなことが、繰り返されるのだろうと、賀来はぼんやりと考えた。全てが繰り返しで、何度も間違い、何度も後悔して、それからやっと一歩だけ、もしくは半歩だけ、進むことができる。

 誰もが幸福になるべきなのに。

 なんでこの世界は残酷なんだろうか。

 賀来の右手、男を容赦なく殴り倒した手が、痛んだ。その痛みを無視して、賀来はアイスティーの入ったグラスを持ち上げる。水滴がポタポタとカウンターに落ちる。

「上機嫌ですね」

 隣の席に荷物を置きながら、十束がそんなことを言う。

「そうかね。実はニコルさんから、若く見えると言われてね」

「ひげを剃ったら、もっと若くなりますよ」

「これだけはどうしようもなくてね」

 肩をすくめて、十束が本棚の方へ行き、背表紙の群れを眺め始める。

 そんな十束の様子を、ニコルが観察している。お茶とおやつを出すタイミングを計る以上の何かが、その視線に込められているのに、賀来は気づき、ヒゲの中で口元を緩めた。

 きっと、いいことなのだろう。

 この世界が繰り返しの連続で進歩しないとしても、その中には繰り返される幸福もある。

 その幸福がさらに一歩先へ進めれば、何も問題ないし、その一歩に挑むのも、必要なことだ。

 ニコルが賀来の方をチラッと見たので、賀来は手元の本に目を落とした。

 十束が席へ戻ってきて、腰掛けたところへ、ニコルがすかさずお茶を用意した。

「どうぞ」

「ありがとう」

 そんなやり取りが、静かに空気に溶けた。



(第0話 了)

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書棚のある店で、青年は静かに本を読み、少女はささやかな恋をする。 和泉茉樹 @idumimaki

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