0-4 馬鹿な行動
◆
賀来は上野の美術館にその日一番に入り、昼前には秋葉原まで歩いていた。
大通りから脇道へ入っていき、さらに進む。
その時、かすかに悲鳴が聞こえた。近くにいた通行人がちらっとそちらを見るが、賀来は駆け出していた。
悲鳴が誰の声か、すぐわかったからだ。
角を曲がると、女性が若い男に腕を掴まれ、引きずられていく。裏通りの中の裏通りなので、賀来が飛び込むまで、通りにはその二人しかいなかった。
悲鳴がまた上がった時には、賀来はすでに男との間合いを詰めて、一方の男は抵抗する女性に乱暴するのに必死なのか、賀来には気づかなかった。
声をかけるなどということはしなかった。
駆け寄った勢いそのままに男の顔面を殴りつけていた。短い悲鳴をあげ、男が転倒する。よろめいてもまだ立っていた女性が、土気色の顔で賀来を見た。
「賀来さん?」
「店に行きなさい」
賀来はそれだけ言って、男に近づいていった。解放されたはずの女性、アヤメはそこから動かない。
「行きなさい、アヤメ」
言いながら、まだ倒れている男を引きずり起こし、賀来はもう一撃、殴りつけた。男は呻くだけで、ぐったりと力を失った。
「やめてください!」
背後からアヤメが飛びついてきて、賀来はやっと少しだけ冷静になれた。アヤメは泣いていた。
「行きましょう、放っておいて、行きましょう」
アヤメがそう繰り返すので、賀来は意識が朦朧としている男を放り出し、そのまま倒れ込んた男を放って俗典舎のある雑居ビルにアヤメを連れて入った。
エレベーターに乗ったところで、賀来はやっと平静な心を取り戻した。それまでは怒りに支配されて、何も考えていなかったようなものだ。
疑問も次々と浮かんだ。あの男は誰か、アヤメとはどういう関係か、何があの時、起こっていたのか。
「あれは誰だ?」
自分でびっくりするほどの低い声で、賀来はアヤメに訊ねた。アヤメはもう泣き止んでいるけれど、賀来を見ようとはしなかった。
「昔の、恋人です」
「ああ、それは悪いことをした」
そっけなく応じながら、賀来は後悔していた。勝手な都合で相手を殴り倒し、結局はアヤメに迷惑をかけている。
それでも後悔が薄いのは、賀来の中でアヤメが特別だからだろう。
もしかしたら、アリスや彼女の友人の遠藤とは違う意味で、特別なんだろう。
「あまり変な男を近づけないほうがいい」
エレベータのドアが開いたので、賀来は先に降りた。アヤメは黙って付いてくる。
店に入ると笑顔でアリスが出迎え、しかしその顔が驚きに変わる。
「賀来さん、服に血がついていますよ。それに手にも」
言われてみれば、と賀来は自分の服を見て、次に男を殴りつけた右手を見た。出血はあの男のものが大半で、賀来自身は怪我らしい怪我もない。しかし右手は痛かった。
「気にすることはないよ」
「アリスさん」急にアヤメが大きな声を出した。「その、お話があります」
アリスは彼女の様子に神妙な顔になり、奥で聞きましょうか、と訊いた。その言葉にアヤメは賀来を見て、ここで話します、と言った。
そして自分と恋人の関係のもつれを説明し、もう解きほぐせるものではなく、自分はその男から逃げるようにしていると言った。
この店のこともどうやら知られてしまったようで、また別のところに行こうと思う、という言葉で話は終わった。
無意識にだろう、口元を手で押さえながら、アリスは黙って聞いていた。
アヤメが口を閉じて少ししてから、アリスは「警察に相談しましょうか」と言ったけれど、アヤメは首を横に振った。
「あまり刺激したくなんです。何が起こるか、わかりませんから」
「でも悪いのは相手の男の人じゃないですか」
そんなアリスの抵抗も虚しく、アヤメはロッカーを片付けます、と店の奥へ行ってしまい、アリスは一言も発さず、無反応の賀来を見てから、彼女を追っていった。
賀来は自然と座っていたカウンターの席を離れ、本棚の前に立った。そして考えた。
結局、自分は助けたつもりで、余計な困難を背負わせ、事態をより混乱させただけだ。
馬鹿なことをした。馬鹿なことだった。
でも、あのアヤメの悲鳴が、耳から消えていかない。あの悲鳴は本当の、助けを欲する声だったはずだ。
アヤメが戻ってきて、アリスは引きとめようとしているけれど、アヤメの考えは変わらないようだった。そのアヤメが笑みを見せ、アリスに何か言っているけれど、賀来は聞かないようにした。じっと本棚を睨みつけ、口を閉じていた。
ドアが閉まる音がして、その後にため息があり、沈黙があり、ささやかな泣き声が聞こえてきた。
振り返り、賀来はアリスに歩み寄ると、「悪かったよ」とだけ言った。
ここにはもう来るべきではないかもしれない。
「待ってください、賀来さん」
震える声で、店を出ようとした賀来をアリスが引き止めた。
「お茶を飲んで、行きませんか」
ゆっくりと振り返った賀来の視線の先で、アリスは目元を濡らしながら、笑っていた。
強い子だ。ただの金持ちの娘というだけではなく、人間として、面白いかもしれない。
自分がどうしようもない男になってしまったことを、賀来はひしひしと感じていた。それに比べて、目の前の女の子は、精神的に倒れこむのをこの瞬間にもこらえている。
強靭な、意志が見えた。
誰もいなくなったら、きっとアリスはわんわん泣くんだろう。
賀来は溜息を吐き、「警察には一応、通報したほうがいい」と言った。
そうします、とアリスは頷き、どうぞ、と席を示した。
(続く)
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